●米国大学でFilming class (映画製作関連の授業)
米国オレゴン大学(UO)に留学していたとき、私はFilming関係のクラスをひとつ、受講しました。
School of Music、日本語で言うと、音楽学部、とでも訳すのでしょうか、
UOには楽器演奏や作曲を専攻する学部があり、そこが提供している授業がこの、映画音楽から映画そのものについて勉強するクラスでした。
私が専攻していた国際学部やアジア学部には直接、関係のある授業ではありませんでしたが、もともと私は10代のころ、Filming(映画製作)を勉強するために米国留学をしたいと考えていたような女子高生だったので、そんな私にはとても魅力的な授業でした。
●授業の様子(米国オレゴン大学)
「映画と音楽」は切っても切れない存在です。クラスでは音楽を切り口に、ご自身が映画フリークでMoviegoerだというトロンボーン専攻科の教授が世界中のさまざまな年代の映画について、各回テーマを設けてたくさん、映画や映像について語ってくださいました。
そうなのです。大学の授業で映画鑑賞、したのです。
そういえば、PVもみたなぁ。
故George Michaelの「Faith」とか。
まるで教会音楽かバッハの曲みたいなオルガンの伴奏から一転、アコギでリズムの旋律を弾き始めたGeorgeの足元から脚をカメラが嘗め回すように映すオープニングシーンなんか、クラスでびぃびぃ、口笛鳴ってた記憶が。笑
(日本の総合大学でもこういう授業、いっぱいあるといいのにね。創造性と独創性が思いっきり刺激されます。ちなみに私は「Jazzの歴史」という授業もSchool of Musicにて受講したのですが、それを日本のJazz好きの知人に話すと、「いいなぁ。僕なら満点とりそうだなぁ」とうらやましそうに言われましたね)
鑑賞した映画は、
黒澤明監督「夢」
勅使河原監督「砂の女」
日本未公開の「Mishima」
コクトー「美女と野獣」
コクトー「オルフェウス」
ゴダール「Weekend」
「Jacob’s Ladder」
「Siesta」
「Europa」
そしていまからご紹介する、私の大好きな映画の1本となった「Koyaanisqatsi(コヤニスカッツィ)」です。
●「コヤニスカッツィ」(バランスを失った生活)
カルト的人気映画、とどこかで目にしたこともあります。
Koyaanisquatsiとはネイティブアメリカンの部族であるホピ族の言葉で、”Unbalanced life”という意味だそうで、副題には「Life out of balance」とついています。
バランスを失った生活。固定カメラで長時間、「低速度撮影」という技法で写された全米各所の都市の風景や自然の移り変わりが印象的なドキュメンタリーです。
一般の映画フリークをはじめ、プロフェッショナルな表現者にもインスピレーションを与えた映画です。
●KoyaanisquatiesqueなPV “Ray of Light”
たとえば、マドンナのPV,”Ray of Light”の撮影方法。中間のコマをいくつか落として写された雲がぎこちない動きで急スピードで流れていったり、それを背景にマドンナがぎこちない動き(コマ落としなので)で狂ったように踊ります。
★★★★★マドンナのYouTubeオフィシャルサイトからの引用 Quoting from Madonna’s official promotion video on YouTube site★★★★★
英語で「-esque」と接尾語が付くと、なになに風という意味があります。romanesque ロマネスクというように。どこかの英文サイトにはこのマドンナのPVが「Koyaanisquatsiesque」だと表現されていました。
マドンナのPVも、Koyaanisquatsiも、どちらも実際に観ていた私にはこの英単語(造語)を見た瞬間、「ああ、たしかに!」とヒットしました。書き込んだかたの言語感覚と創造性は素晴らしい。
●Philip Grass (フィリップ・グラス)
そして、米国を代表する現代音楽家であるPhilip Grassの音楽も反復される映像にシナジーを与えています。
ご本人は「ミニマリスト」と言われるのを嫌がっている、とどこかで聞いたことがありますが、ラベルの「ボレロ」やYMOの曲(とくに、坂本キョージュの曲)と同じく、小さなテーマと呼ぶべき音・音符・リズムがあって、それらがどんどん形を変えていくさまは、Theme and variation(テーマと変奏)と言えます。
*そういえばPhillip Grassは、「Mishima」の音楽も担当してましたね。この授業のおかげでPhilip Grassは私の大好きな作曲家のひとりとなりました。ホラー映画「Candy Man」の音楽も担当してたんですよー。本当に幅広く活躍されてます。
●コヤニスカッツィに身を任せて
ドキュメンタリーと言ってもなにかを声高に叫ぶわけでもなく、かかる音といえばひたすら、Philip Grassのあの、四連符や三連符の反復にときおり、ブルーノートが入るような特徴的な旋律だけ。
(耳にした瞬間に、「あ、これPhilip Grass」と分かる、アレです)
セリフなんか、ない。
監督であるレッジオ氏ご本人も「何かを訴えるために創ったんじゃない」とおっしゃっている。
けれど、だからこそ、観るもの一人一人に入り込む余地を与えている。
観るもの一人一人がそれぞれの感性や直観で主観的に何かを感じる。この映画を観ながら。
私の場合は、多くの鑑賞者と同じく、この映画を見るたび、自然(nature)のなかで生きる人類が、自分たちのために人工的に作り出した機械や文明の利器によって管理される皮肉、を感じます。
●高速を流れていく「リボン」
たとえば。
色鮮やかなリボンがたくさん、米国の夜の高速道路を流れていく。虹色を形作るように。
でもそれは本当はリボンなんかじゃなく、高速沿いの外灯や車のテールランプなどの色が低速度撮影によって映し出されたときにまるで、リボンのような筋となってひたすら、ひらひらと流れていってるのです。
「狂ったようなものすごい速度」で。
なにかに向かってひたすらものすごいスピードで何かが駆け抜けていく。それも、一定の速度を保ちながら。秒針のような正確さで。それは一見、「目的地」や「目的」があって「急いで移動」+「車」=「目的地・目的」という数式が成り立つバランスが崩れている(out of balance)かのようにすら感じられるのです。
●観るものが自ら関わっていく映画、それがコヤニスカッツィ
自然のなかに生きることで心身の調和を与えられていた人間が、利便性を追求した結果、自分たちの調和(balance)を崩していく。
それを表しているかのように感じるのです。
そしてそれとはうらはらに私は、規則正しく動く画面と音楽の反復を聴いて、自分のなかでまるで車や電車の規則正しいリズムを感じながら安心感を得て居眠りするような調和を感じている。おそらくこの映画の多くのファンと同じように。
本当に不思議な心地よさのある映画です。