「アートにリスクはつきものである」(Art must be risky)。そして、アートは時代を超越します。

今日はちょうど1年前に発行されていた、
TIME Magazine 5月21日号(May 21, 2018)のFFCoppola監督のインタビューからインスピレーションを得て書いています。
●「アートや芸術にリスクはつきものである」。(コッポラ)
●アートは時代を超越するものである。(小山ケイ)
●「アートは物議をかもすものである」(マドンナ)



昨日は下記の記事を書きました。

●「アートや芸術にリスクはつきものである」(コッポラ)

マチス展

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受け取っていながら読み飛ばしていたのですが、定期購読していてすでに配送されていた、1年まえの米国「TIME Magazine」を最近、読み返してみました。

コッポラ監督のショートインタビューが掲載されていたので急いで読むと、やはりというか、とても興味深い内容でした。

自分がまだ映画化していない小説で機会があれば映画化してみたいものとしては三島由紀夫の「春の海」(豊饒の海から)だと述べている個所があり、コッポラ&三島ファンの私としては「実現したらどんな映像になるのだろう」とわくわくしました。

さらに目を引いたのは、ソーシャルメディアとコンテンツやアートについて「自分は間違ってるかもしれない」としながらも述べているところがあり、未来を言い当てているようで触発されました。

ソーシャルメディアはアルゴリズムによる「変化」を宿命として背負っています。

映画のような時代や流行に左右されない持続性があり半永久的な「コンテンツ」はソーシャルメディアを運営する企業が欲するところです。

そのため、近い将来に映画界全体がそれらの企業によって買い占められる可能性がある、というのが監督の予見です。

収益構造としても映画コンテンツは、フローである収穫逓増型になりやすいからでしょう。

マ・マンというタイトルの蜘蛛型オブジェです。

時代の最先端を情報として提供したり、いまだ経験したことのないサービスや技術、製品を提供したり、いまだ「会ったことのない」人たちを友達の友達、としてお知らせしたりすることはソーシャルメディアの最大ドメインですが、その対極にあるような、いつの時代に観ても色あせることのない映画はアート・芸術の真価をまさに表していると思います。

中世に書かれた絵画を私たちが観て感動したり、バッハのクラシック音楽を聴いて心癒されるのと同じです。

これらはAIではほぼ代替不可能であり、「テクノロジーが人間に取ってかわる」という次元の話からはねじれの位置にある表現の世界です。

なぜなら、テクノロジー(technology)はつねに、時代の先を行かなければならないものだからです。

technology=最先端技術、と和訳できるところからも、テクノロジーの性格がわかるはずです。

(だから、テクノロジーに強い意識が向いている人はわりと未来の話をしたがります。過去や古典、ロングテールから紐解く分析よりも)

静岡葛城ホテル

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「アートにリスクはつきものである」とコッポラ監督はインタビューで述べていますが、リスクを取ったからこそ、それが花開くときは、時代を超越するパワーを発揮するのだと思います。

 

3度の破産を経験し、ワイナリーの実業家としては現在、大成功を収めているコッポラ監督の未来予見を読みながら、アートが「ハイリスクハイリターン」であるということに納得しました。

●アートは時代を超越するものである。(小山ケイ)

ミキモトコスメティックス
銀座ミキモトコスメティックスのティールーム。撮影:小山ケイ Tea room of Mikimoto Cosmetics in Ginza, Tokyo (Japan) photo by Kay Koyama

時代の先をゆく宿命にあるのがテクノロジーだとすると、アートは時代を超越してこそその価値が生まれると私は思っています。

好みの問題ではありますが、声高にいまの政治や世情を訴えるような、その時代時代を反映する作品づくりよりも、どの時代においても、大人の鑑賞に耐えうる普遍性と感動のある表現作品が、私にとってのアートや芸術です。

今の政治や世情に問題を感じる作家が問題提起をテーマに表現するのであれば、時代設定を中世や近未来に置き換え、登場人物も観客が想像もつかないような生物にしたり身分制度のある時代で社会の底辺に生きるひとびとを取り上げても良いはずです。

見る側には非日常が提示されるうえに、想像力が掻き立てられるので、自分も能動的にその作品に関わることになります。

音楽も同じです。

私がバッハを聴くたびに感じているのは、「パパ」バッハ (“great daddy” Bach)による人類愛です。

子だくさんで宗教に生きた人だからこそかもしれません。

私が大好きなもうひとりの作曲家であるショパンからは、人類愛よりもエロスの愛を感じることと比べると大きな違いです

(ショパンの曲を聴くたび、ジョルジュ・サンドへの情熱的で官能に満ちた狂おしいほどのショパンの愛が鮮明なビジュアルとなって私の脳に押し寄せてきます)

いずれの作曲家も当の昔に故人となっていますが、作品はいまだに色あせることがありません。とくにバッハの曲を聴いているときの私の脳波は、アルファー波(α)か、瞑想中にでるといわれるシータ波(Θ)が出てるんじゃないかな。

ハッと我に返って時計を見る、なんてことはしょっちゅう。

その間の私の意識は四次元か「あの世」に行ってる。笑

同時代を生きているような錯覚に陥りながら、意識を集中させてもらっています。

テクノロジーは最先端技術です。だから企業も国も、テクノロジーにはたくさんお金を出します。

先を行くものは未来とつながり、未来とは発展する産業とつながっている、ととらえられることが多いから。

けれど、アートや芸術は時代や流行に左右されません(テーマにすえたり、モチーフとして取り上げることはあっても)。

だから、「アートはリスキー」なのだと思います。

お金を出してくれるひとが限られていたり、お金と無縁になる可能性を秘めているから。

観る者や批評家の好みにも影響を受けるからぽしゃることもある。

数年前にBBC radio 4を聴いていたとき、「Basquiatが過去最高額で落札されました。落札したのは日本人実業家です」と速報があったとき(もちろん英語です)、

「えっ」

とすぐに検索しました。それがZozotownの前澤さんだと分かったとき、私はただただ、すごいかただと畏怖の念すら覚えました。

テクノロジーにお金をだす起業家はたくさんおられますが、時代を超越して、人に感動を与えたり、感情や既成概念をゆさぶったり社会に問題提起したりするアートや芸術に巨額の私財を捧げるかたは少ないからです。

 

●「アートは物議をかもすものである」(マドンナ)

David Bowie Is 展
数年前に品川にて開かれた、David Bowie Is展。撮影:小山 ケイ。”David Bowie Is” in Tokyo presented by Victoria and Albert Museum, UK (Photo by Kay Koyama)

“Art must be controversial.”と言ったのはMadonnaですが、今日の記事のさいごに、「いつの時代のアートも芸術も、後世が大きく評価しているものは、発表当時は物議をかもすものである」と書いておきたいと思います。

ぼこぼこにされたり、無視されたり、けちょんけちょんにけなされたり。

まったく評価されずに亡くなったひともたくさんおられますよね。

いまは偉大な作家、画家、表現者として評価されているとしても。

ゴッホしかり

私が敬愛するヘンリー・ダーガー(Henry Darger)しかり。

 

30年という長い時を経てもそのときどきで新しい意味が生まれたり、時代や既成概念への挑戦を感じたり視覚上の目新しさや斬新さがあったりで、音楽と歌詞の意味も含めて、「Like a Prayer」はマドンナの歌のなかでも私が大好きな曲です。

★★★★★リミックスでハウスミュージック版「Gregorian chant」となった「Like a Prayer」。 30年も前に来日コンサートで同曲を聴いたときの感動と衝撃が蘇ります。還暦には見えないマドンナ。GALA2018版の衣裳は30年前の「Blonde Ambition Tour」と同じく、Jean Paul Gaultier。 下はオリジナルのOfficial PV by Madonna★★★★★

★★★★★Quoting from the official YouTube videos of Madonna’s★★★★★

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