今日の記事では、「教えられる側」としての私の長年の実体験をもとに、「人にものを教えるのが上手なホンモノ」について書いていきます。前回は下の記事を書きました。
●人にものを教えるのが上手なホンモノ。
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これまでの人生において、私はたくさんのかたからものを教わってきました。そのなかにはもちろん、小学校の先生や中学・高校の先生も含まれています。
私がホンモノだと感じた「教え方のうまい先生」は以下の通りです。
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1) 一回にひとつのことだけ指摘する。
2) ちゃんと褒める。
3) 習っている側をいじりながら「愛」を感じる。笑
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私が「すごいなぁ」と思った先生は二人、います。ひとりは高校のときの英語の先生、もうひとりはゴルフのコーチです。
高校の時は先生にはわりと恵まれていたので、国語の先生も数学の先生も(いずれも女性)とても大好きな先生だったのですが、英語のM先生は格別人気も高いかたでした。
生徒をけなす(?)のですが、そこになぜか愛を感じさせる。いじりかた、けなしかたが上手だったんでしょうね。クリスチャンでした(クリスチャンだからみんながみんな愛情深いとは思いませんが。残念ながら)。
先生の質問に答えられなかったりすると、「おいコヤマ、おまえ先生からちゃんと文法ならったはずだろぉ?」といじられる。うへぇ・・・と思いながらもクラスでは明るい笑いが起きる。そして他の学生も同じようにいじられて笑いがおこる。
あのときに、人間の心理っておもしろい、いじられると愛を感じさせる人もいるんだ、と高校生ながらも知りましたね。芸人さんでいうと毒舌家で知られているけど、お年寄りやマダムに人気のあるようなかたたちです。たとえば毒蝮さんに「くそばばぁ」と言われても愛を感じるおばあさんが多いようなものです。
もちろん、高校生のときはホンモノについて考えたこともなかったので、「この先生いいな」と思っただけでしたが、大人になってみると、先生のすごさが分かりました。状況を楽しんだり、生徒とのやりとりを楽しんでいないと、あんなふうにいじれないです。
ひとりひとりの生徒を大切に思ってくださっていたからこそできることだったと、いまにして心から頭が下がる思いがします。
ホンモノの先生です。
高校のときの英語の授業が楽しく感じたのは先生のおかげですね(前述のように、国語の先生も数学の先生も私は大好きだったので、当時の「私立受験3科目(笑)」はどれも大好きな授業でした。先生がたのおかげです)
もうひとりの「すごい」先生は、ゴルフのコーチN先生です。人間としては隙だらけで奥さん以外にも彼女をつくっちゃって熟年離婚したりで(笑)話題にことかかない人ですが、おしえかたはとにかく上手。
一回のレッスンで、ひとつのこと「しか」、指摘しない。
はじめはこちらも必死ですので、一生懸命先生の話を聞いているのですが、しばらくたつうちに、先生におしえていただいてると、頭にすーっと内容が入ってくるのがわかるようになりました。
それが物足りない、と思うかたもおられるようで、「先生はひとつのことしか言わない」と漏らす人もいました。でも、ごちゃごちゃと、目につくところを手当たり次第に指摘する、というのは私にとっては「ホンモノ」ではありません。笑
N先生によって、「人間は一度にいくつものことを理解できないのだ」ということを知りました。先生はそれがわかっているから、その日はどれを指摘するのが一番効果的か、計算して指導してくださっていたのです。
たったひとつだけおかしい、ということはありえません。とくにゴルフのような、年季と練習量がある程度ものをいうスポーツは。それが証拠に、シングルプレーヤーが私の練習を見ていて、「先生はどうしてアナタのこういうところやそういうところ、指摘しないんだろうね」、なんて言う。笑
シングルプレーヤーの全員が「教えるということを理解しているわけではない」、と何度私が感じたことか。
N先生のおかげで、カメの歩みながらもこつこつとスイングを固められ、コースが回れるようになりました。ひとつひつのことを確実に良くしていこう、としたからです。
●私にとって「ホンモノじゃないな」と思う教えかた
ダメな例。笑
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1) 一度にたくさんのことを指摘する。
2) 「なぜ」を言わずに「そういうものだから!」と教える。
3) 叱ってばかりで褒めない。
4) (これが最悪)全員を「均す(ならす)」。
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ある習いものをしていたときのことです。その女の先生は、とにかく「目につくダメなところ」を手当たり次第に指摘するかたでした。女の先生にも上記のN先生のように論理的に計算して教えられる人はいると思うのですが、その先生はとにかく一度にたくさんのことを指摘する。
そして極めつけが、習っている生徒全員を「均(なら)そう」と試みること。
たとえば、私が習ったことを復習して次回のときにできるようになったとしても、お休みしている人がレッスンに来てできるようになるまで、足並みをそろえようとする。
できる人間に合わせて全体のレベルを底上げしよう、とされるのもつらいと思いますが、こつこつと練習して、しかも仕事の合間にスケジューリングもしてレッスンを受けている人間には、なんとなくストレスがたまりました。
「あなたはできる人だから、次回はお休みしないでレッスンに来てね」と、休みがちな人に声をかける。その間、私はほめられることもなく、ただただ、目につくところを指摘される。次第に「だから次に進めないのよ」と言われているように感じました。
米国がよくて日本が悪い、といういい方は単純な感じであまり好きではありませんが、あの女の先生の教え方を見ていると、よく言われる「米国はやる気のある人間にチャンスを与えるけれど、日本は叩いて均して、全員を平均にしようとする」だとつくづく感じましたね。私はやる気があったので、米国大学に留学中は二つの学部を同時に専攻しました。米国大学全体で用意されているDouble-majorという制度です。
かけっこの得意な子も捕まえて、「全員と手をつないでみんなで同時にゴールしなさい!」と運動会で指導する学校の先生がいるとして、一時期問題になりましたよね。かけっこの得意な子は、待ってましたとばかりに自分の得意なことで気分よくなりたいだろうに。そんな状態でした。
私もひましてるわけではなく、この日の何時から何時までは先生のレッスンがある、とわかっているから、社会人の能力としても求められる事前のスケジューリングをして合わせているのに、いきあたりばったりに「今日は仕事でこられませ~ん」と突然連絡がくる人のほうを大切にするやりかたには理不尽な想いがしました。
こういう経験があるからこそ、自分が教える立場であるときは、次のようなことに気をつけよう、と思っています。
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1) 一度に指摘することはひとつだけ。
2) 努力する人間を認める。
3) こつこつとやっている人間をどんどん伸ばす。
4) ちゃんとやってる人間は褒める。それも人前で。
5) 指導に一貫性を持たせる。この人のときは指摘せずに、この人のときは指摘する、ではなく。
6) やる気のある人間がクラスにいたら、それを我慢させて他の人間と一緒に均(なら)すのではなく、その人間の能力を伸ばすほうにエネルギーと意識を向ける。指導者として。
7) 教えるときは、できるだけ「なぜ」を伝える。そのほうが相手が理解しやすいから。相手が自分の頭で咀嚼して自分のものとしやすいから。
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