今日の記事は、1月1日に書いた記事から、「めいっぱい遊ぶ」ということについて、明日と二つに分けてじっくり、書いていきます。
●「遊ぶ」ということ。豊かに、幸せに、生きるために。
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学校で教えてくれないことはたくさんあります。そのひとつが、「めいっぱい遊ぶ」ということ。
遊びの何がいいかというと、教科書では決して学ぶことのできない、生きる上で必要なたくさんのことを教えてくれることです。
とにかく多岐にわたる。
学校の勉強は体系づけられたアカデミックな研究がもとになっているものばかりです。あるいは受験勉強のための攻略方法とか暗記法を教えてくれる場。だから、研究者として生きるかたには最適な学びの場となりますが、そうではない人にとってはものたりないときがある。
それがどう、「生きる」ことにつながっていくのか、わからないから。違いますか?(学校の勉強も本当は「生きる」ことにさまざまに応用できるのですが、それはまた別の機会に)
★どういう人間が他人にとって「魅力的」か教えてくれる。
★魅力的な人間になる方法を教えてくれる。
★食べ方を教えてくれる(呑み方、料理人のかたへの接し方)
★人へのマーキングのしかた。どうすれば印象付けられるか。
★たくさんの経験を与えてくれる。
★自分の心身について教えてくれる。
★バランス感覚が養われる。
★「イキ」な生き方を教えてくれる。
★機微の読み方を教えてくれる。
★心身に余裕を与えてくれる。
★命の洗濯。
★人との出会いの場。
★情報交換の場。
★他人に対する心遣いを教えてくれる。
★加減、ということについて教えてくれる。
★中庸、ということについて教えてくれる。
★豊かであること、幸せであることの定義について教えてくれる。
●たとえば、大人はこんなふうに遊べます。
このブログで何度か書いていますが、私の知り合いの幼馴染(その知り合いの)に、「小さいときから大人になるまでほとんど遊ばなかった」という男がいます。中年を過ぎてから急に遊び始めたので、言うことは大胆ですが機微が読めないらしい。還暦前後の女性に面と向かって「あなたの実年齢を人から聞きましたよ」と言ったりするとのこと。
あるいは、私の男友達のように、おとなになるまで文学や映画、音楽にほとんど触れたことがない、学校の勉強一筋で研究者になりました、という人間もいる。悪い奴ではないけれど、どこか理詰めで一緒にいて窮屈さを感じることはあります。
私は小さいときから親、祖父母に「遊びの天才」と言われて育ちました(笑)。神童、秀才、勉強の好きな子、などと言われたことはまったくありませんが、「遊びの天才で公園の主だった」「学校のクラスの子たちがくっついてくる子」などと言われたものです。
それはもしかしたら「刷り込み」であったかもしれないですが(他の子も一緒になって遊んでたので。私の子供時代は)、その刷り込みによって私は自分が「遊びの天才である」と信じて疑わず、中年になるいまのいままでずっと、楽しく遊んできました。もちろん人生のメリハリを大切にしながら。
小さいときから遊べば、どういう子が好かれるか嫌われるか、わかります。花いちもんめ、で最初にとられる子と最後まで残る子の違いでしょうか。笑→ 花いちもんめ、なんていまの子たちは知ってるかな・・・・。
どういう言動が好かれたり嫌われたりするか。
体のあちこちもぶつけたり切ったり怪我したりもしますので、自分の体がどうすれば危険を避けられるか、も遊びが教えてくれました。
多感な時期に音楽や映画、文学をシャワーのように浴びれば、感受性がむちゃくちゃ刺激されます。クリエイティビティもそう。自分のオリジナリティについても考える。
法定年齢を過ぎれば、酒の飲み方もわかる。食べ物の食べ方もわかる。目上に可愛がられるのが「可愛げのある人間」であることもよくわかる。一流の人たちとの接し方も勉強できる。身のこなし、着こなし、見た目の手入れもそう。
とにかく、ありとあらゆることを教えてくれるのが「遊び」なのです。
★「茶飲み友達」を作る。自分の夫・妻・恋人以外で。
★ゴルフをする。
★旅行をする。
★趣味にとことん、没頭する。
★酒を楽しむ(呑める人は)。
★食を楽しむ。
★遊び=ごはんの種、となるのが真の遊び人。幸せな人生。
★華やかな街でウインドウショッピングする。流行りのファッションや着こなしについて知ることができます。いい香りがしたり色合いも目を引きますので。
★楽しいと感じるスポーツをする。
★映画、音楽、ライブを楽しむ。
★温泉に行く。
続きはまた明日!
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