今日の記事では、よく耳にする「英語で『何を言うか』」ということについて書いていきます。
<もくじ>
●英語で「何を言うか」。
●私が敬愛する映画監督David Cronenbergの過去のインタビュー動画をいくつか観ていて。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日は「英語(潜在意識を味方につけて)」のカテゴリーで書きました。同じカテゴリーで前回書いた記事は下からごらんになれます。
●英語で「何を言うか」。
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「英語で『何を言うか』。発音や文法うんぬんよりも」
手あかのついた説明のようにも思えて、これまで「英語では何をいうかが大切」については私はこのブログでほとんど書きませんでした。
けれど、英語という外国語を使うときにある一定のレベルで話す場面では「何を言うか」はやっぱり大切だとつくづく思います。
★表現者が自分の考えや想いをインタビューで伝えるとき。
★自社のビジネスについて本国の人間や世界各地の支店・支社の人間たちとコアなやりとりをする。
★研究者が人前で発表するとき。
★大きな国際会議で議論するとき。
★TEDのようなサロンでプレゼンするとき。
★高等教育(大学・大学院)で教授や関係者、友人・仲間たちと研究対象について話をするとき。あるいはそれらに間接的に影響を与えそうな「雑談」をするとき。
上記のとおり、「何を言うかが重要」ではあってもそれが重要視されるシチュエーションというものがあります。どんな場合でもかならずそれが重要視されている、というわけではないので。実は。
英語圏の人たちがみんながみんな、哲学者じゃないですし・・・笑。 日本と同じです。
「何を言うかが重要」と表現されている意味は、「独創性があってインスピレーションを与えてくれて知的で切り口が面白いことを言う」ということだと私は理解しています。
たとえば日常会話。
買い物に行った先の店員と政治談議をしたり芸術談義をしたり、はほとんどないです。必要最低限のやりとりをして終わる。
長年つきあいのある顔なじみなら深い哲学談義もあるかもしれませんが、「日常会話」と日本語で表現される関係性では普通、そのイメージはない。
さらに組織内の会話もそうです。
日本のような組織のしばりが強くて組織のダイナミズムが個人の生活にすらも影響を与えるような社会では、「何を言うか」はおろそかにされることも多い。
日本語で話すとき、「何を言うか」ではなく「どうふるまうか。組織の一員として」のほうが重視されやすいと思います。
だからこれまで、「英語では『何を言うか』という中身が大切」という話を耳にするとき、半分同意しながらも私は懐疑的な思いも抱いていたのです。残念ながら自分が話す相手にもよりますし、状況にもよるからです。
けれど、上記の星印のような状況では聞き手も耳をよく傾けてくれています。理解度が高くて知的レベルの高い聞き手も多い。
以前私はこのブログで「自分の英語に関する否定的なことはプレゼンやスピーキングの試験では言わなくていい」と書きました。
小山ケイ過去記事】否定的なことは言わなくていい。英語の面接にて。
プレゼンの聴衆や試験監督者は、こちらの詫びを聴きにきているのではなく話の中身を聴きにきている。
私が米国大学に留学していたとき、nativeの友だちに自分の英語について相談したことがあります。そのときに彼が言ったのはやはり、「何を言うかが大切だよ」でした。
「ある授業にはケイの発音とはくらべものにならないほどとても訛りの強い留学生がいるんだ。でも彼の意見にはいつも刺激を受ける。知的で切り口がおもしろい」
このブログの人生ドリルシリーズで私は、「頭のねじを一本、はずしてみる(状況次第で)」ということについても書きました。
上記の過去記事は、意味不明で理不尽ですらある人間をまえにしたり、そうした人間が自分よりも力を有したりしているときを想定しています。
そうした人間をまえに筋の通ったことを言ったり、あるいは自分の意見を言ったりすることすら、否定的に受け取られることが私のこれまでの経験からあったからです。
英語を使って「何を言うか」が大切になるのは私が思うに、相手との相乗効果が感じられるとき。
◆相手の知的レベルが高い。
◆人の話をしっかり聞いてくれる。
◆刺激的でクリエイティブなフィードバックを返してくれる。
◆相手の理解度が高い。
◆相手に克己心がある。(たとえば外国人のなまりをとりあげて笑い出すようなあげ足取りではない)
◆話の内容に耳を傾けている。
●私が敬愛する映画監督David Cronenbergの過去のインタビュー動画をいくつか観ていて。
私は長年、Cronenberg監督作品を観ています。YouTubeのおかげで世界中でCronenberg監督がインタビューを受けたり講演したりした動画も観ることができるようになりました。
どれを観ても、ものすごく面白い。
もちろん、「面白い」という感情は私のまったくの主観です。それゆえ他のかたが見たら「どこが?」と思われるかもしれない。
Cronenberg監督はもともと小説家を志していたこともあって、世界の文学作品に対する造形が深い。そして、動画の中から見える監督の頭の良さや洞察力、哲学、切り口、美意識、自分の思いや考えを表現するさいの言葉の選び方などからも私は大きな刺激を受けるのです。
とても聞き取りやすい英語(私がこのブログで何度か書いた、「コミュニケーションのノイズがない」)を話してくださることも、監督の言葉が私の中に深く落とし込められていく要因の一つでしょう。
監督のお話を聴いているほどに、「英語ではやっぱり、「何を言うか」」が重視される場面に身をおく人こそが、「英語を使って国際的に活躍する」と日本の教育機関で表現される人なのだ」と確信します。
さまざまな文化を背負った人やさまざまな地域の人たちが使う英語だからこそ、お互いに同じ土俵に乗って相乗効果を発揮できる場面では、「何を言うか」が大切になってくる。
英語が使えても、”Yo’men, what’s up?” ばかりの日々ではもったいない。大笑
明日は人生ドリルシリーズとして「あるレベルまで自分を押し上げる努力をする」と題して記事を書いてみようと思います。
「何を言うか」が重視される場面に身を置くために。
<ご参考までに:Cronenberg監督作品>
小山ケイ過去記事】おすすめ映画「戦慄の絆」(1988年作品)
小山ケイ過去記事】おすすめ映画「裸のランチ」(199年作品)
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