今日の記事では、昨日の記事からの続きで「何を言うかが大切な場面に身をおく努力をする」ということについて書いています。
<もくじ>
●「何を言うか」が大切な場面に身をおく努力をする。
●私が思う、「日本において『何を言うか』が重視される場面」。
●具体的に、どういう努力をするか。。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで人生ドリルシリーズとして書きました。同じカテゴリーで書いた前回の記事は下からご覧になれます。
●「何を言うか」が大切な場面に身をおく努力をする。
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「何を言うかが大切」という場面に自分を置く努力をしたほうがいい、と私が思う理由はこんなことです。
<理由>
1) 不毛な場面(足の引っ張り合い、マウンティングのしあい、ノイズだからけのコミュニケーション、なんのインスピレーションも得られない集まり)に遭遇しにくくなる。
2) 自分の思いを伝えられやすい。
3) お互いの「知の共有」によって、それらがさらに深化・進化するという相乗効果が得られる(そしてさらに、それらが当事者間をこえて、普遍化する可能性すら秘めている。例:映画や小説などの作品に昇華され、後世にも残る、など)
では詳細をみてまいりましょう。
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年寄の繰り言のような毎回同じことが話される集まりもたしかに居心地の良いときはあります。
あるいは、気を遣う必要がなく、単純なことをそれぞれ言い合う仲間同士の集まり。
ミーハーな内容を感情の高ぶりに合わせて共有しあう集まりもそう。
気の合う女性同士でカフェでお茶をしながら、とりとめのない話題について楽しくやりとりする集まりもそう。
こうした集まりに身をおいて、私も居心地よく感じることもあります。
けれど、ある程度の年齢となったら「何を言うか」が重視される場にも身をおいたほうがいい。自分がさらによりよく生きていくことを欲したり、世の中に少しでもプラスとなる何かを提供してみたいと思ったり、人とのクリエイティビティあふれる相乗効果を期待したりするのであれば。
昨日の記事で私は、「日本の組織社会では『何を言うか』はあまり重視されていない。それよりも、『組織の中でどうふるまうか』が重視されやすい」と書きました。
「何を言うか」が重視される場は絶対性や普遍性が求められる場。
「組織の中でどうふるまうか」が重視される場は相対性が求められる場。
そう表現できると思います。
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国会議員の河井夫妻が逮捕されました。
彼らの記事を読むごとに、彼らが「組織の中でどうふるまうか」という相対性にのっとって行動していた人たちだとつくづく感じます。
権力者にはよく振舞い、立場が下の人間(秘書や一般市民・市井の庶民)はないがしろにする。絶対的な「交通法のスピード制限」を甚だしく無視(50キロ以上オーバーして運転)するところからもそれがうかがえる。
だから、企業をはじめとする日本の組織社会に身を置けば置くほど、絶対的な基準ではなく相対的な基準をつねに意識する状況に陥りやすくなります(さっこん流行りの「忖度」でしょうか。笑)。
絶対性や普遍的価値、「知の進化・深化」をないがしろにしながら。
政治もそうでしょう。黒川元検事長しかり、河井夫妻しかり。
●私が思う、「日本において『何を言うか』が重視される場面」。
a) ビジネススクール・
→ すくなくとも、何を言ったかによってクビが飛んだりいじめにあったり攻撃の対象になったりすることはほとんどありません。
言った内容が誹謗中傷でもないかぎり。
きゅうきゅうに組織化しようとするビジネススクールももしかしたらあるのかもしれません。
けれど、100名前後の社会人、それもかなりの専門性を有していることが前提とされたビジネスパーソンたちが集う日本の専門職大学院であれば、参加者それぞれの世界観も多様であり、しばりのきつい一様な組織化は難しいと思います。
ビジネススクールに通うと決めること自体が、相乗効果ある「知の進化・深化」を求めて入学することともいえる。少なくとも学問のうえでは自分よりもうんと先を行く教授との「知のコラボレーション」は無意識であれ期待している入学者が多いはずです。
「なんとなく」「勉強きらい(人から学ぶことがきらい)」という人間が入学することはまれだと思います。入っても長続きしない。たぶん。
だいたいグループワークが苦痛になると思います。そういう人は。
反対に、ビジネススクールの授業や仲間との会話で「何を言ったか」によって、他の学生ビジネスパーソンから「メシ、いっしょにいこう。話をきかせてほしい」と言われたり、「うちの会社にヘッドハントしたい」「うちの仕事を外注したい」となることはあります。
そういう人とつきあいたい、と思う学生が多いってこともあるんじゃないかな。
b) 表現の世界
→ 表現の世界にかかわる方たちが作る「組織」(業界、と呼ばれるものでもいい)となると相対性が生まれてしまいますが(権力闘争や権力構造もあると思います)、表現者が「自分が何を言ったか(表現するか)」を受けとめて何かを感じてくれると思える人たち(観衆・世界の人たち・視聴者・読者・他の表現者)に向かってエネルギーを放つことによって、手法やエネルギーが高度であればあるほどさまざまな形で相乗効果が生まれるものだと思います。
Jazzの即興演奏などはそのさいたる例です。
●具体的に「どういう努力をするか」。
上記の「私が考える『日本で何を言ったか』が重視される場面」をみていただければわかるように、日本においては「何を言ったか」が重視される場面はとにかく少ない。笑
残念ながら、それ以外は組織の相対的な力学が幅を利かせるからです。
女性など「あなたは(女なのだから)何も言わなくていい」と一蹴されることすらあります(青山ビジネススクールの学生でもそう明言した人はいました。笑)。若者もそう。だから多くの若者はオフラインよりもオンラインに浸ってSNSを利用して自分の意見を表現するじゃないかな。
そんななかで、ビジネススクールに通うという選択肢は一部のひとにかぎられます。
であれば、「表現の世界」にどうかかわっていくのか。
1) オンラインの世界で「何を言ったか」の質を高めていく。
表現として他者の鑑賞に堪えうる作品や文章にまで昇華していく。
他者と相乗効果ある意見交換となるような場を作り出していく。
例:動画、Twitterの投稿、ブログの文章、Instagramの写真。オンラインサロン。
2) 他者への伝え方を日々、勉強する。
上記のオンラインでの表現物でも、たとえば学者先生の書いた記事やコラムニスト・評論家さんの記事などを私が読んで「このひとはいったい何を伝えたいんだろうか」と思ったり「年齢のわりに文章がおさない」「あげあしとりでしかない」と否定的な思いしか受け取れないかたもおられます。
つまり、こちらにはなんのインスピレーションもない。
若い書き手じゃないです。私が否定的な思いを受けるのはわりとおじさん・おじーさんの表現物に多い。笑 60すぎてる人たち。とにかく独りよがり。
どう書いたら他者に伝わるか、インスピレーションを与えられるか、日々試行錯誤してみる。
それによって「知の進化・深化」が可能になります。
3) 腹ぐくり。
自分が慣れ親しんだ組織に長年、どっぷりとつかることは確かに居心地よいことでしょう。
でも上記の通り、成長もありません。知の進化・深化に自分が参加するというダイナミズムも一生、経験せずに終わってしまいます。
組織を抜け出てでも「何を言うか」が重視される場に自分の身を置くと決める。
それは会社をやめてフリーランサーになることかもしれないし、オンライン上の表現物ととことん格闘することかもしれない。居心地の良い集まりから抜け出て、新しい集まりに参加することかもしれない。
あるいは2)の「他者への伝え方を日々、勉強する」ことかもしれない。
4) できれば、オンラインでは英語でも表現する。
究極の「何を言うか」が重視される場面です。詳しくは昨日の記事に書いてあります。
高コンテキスト文化で組織の論理が優先される日本よりも、低コンテキスト文化でさまざまな文化的背景・人種・母国語の人たちがつどうオンラインの世界で、共通言語となった英語でやりとりするということです。
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