「守破離(しゅはり)」は、あらゆることに応用できます。

St. Andrews

今日の記事は、「守破離(しゅ・は・り)」について書いています。
●「守破離」は、ビジネスや人生、人づきあい、何にでも応用できます。
●たとえば、自分の好きなことに応用してみる。
昨日は以下の記事を書きました。

●「守破離」は、ビジネスや人生、人付き合い、何にでも応用できます。

大手町のビル群
東京・大手町のビル。右側のビルが、かつて私が新卒で入社した銀行の合併先です。撮影:小山ケイ Photo by Kay Koyama in Otemachi, Tokyo

 

もともとは千利休が説いたといわれている「守破離(しゅはり)」

私も過去に長く茶道を習っていたとき、これを忠実に守りました。どういうことかというと、「守」は師匠から教えらえる「型」や所作を無心で真似して体にしみこませる過程。

そして「破」で師匠の型を徹底的に学んだからこそ見えてくる、師匠にはない型を考えていき、「離」で自分独自の境地を開いて師匠とは異なる独創性を生み出す。

簡単に説明するとそういうことです。

私は、茶道だけではなく、守破離はなんにでもいえることだと思います。

誰の型も真似することなく自分独りだけで型をいきなり作り出し、そして偉大な表現者、哲学者、思想家、武術家になったというひとは歴史上、ほぼ皆無です。

89歳まで生きた、私が敬愛する「画狂老人(自称)」こと、葛飾北斎であっても、若いころに浮世絵師の勝川春章に弟子入りしています。

型無し」という言葉も「守破離」の対義語のようにして生まれました。「型を徹底的に守って学ぶことなくいきなり我流で独創性を求めた結果が『型無し』」なのだそう。

私が12のときから愛するドラムを含めた打楽器であれば、習い始め・楽器のさわり初めのうちに基礎練習(キソレン)を徹底的にすることが、「型」です。それをやらずに我流で推し進めた人のパーカスの音って、なんかスカスカなんスよね。笑

しまりがなくって、利き手じゃないほうの音がひきつったように抜けていく感じ。パコッパコッパコッポロッポロッポロッみたいな。

しかも、粒がそろってなくて、スネアとかタムタムの皮の表面を叩いてる。力まかせに。皮の下10センチぐらいのところにコックを使ってストロークを打ち込むようなイメージで打ってないのが分かる。だから、楽器が鳴ってない。

地味な基礎レンでしっかり、フォームを徹底的に体にしみこませていれば、楽器は鳴ってくれるはずなのに。

私は「独学」を否定しているのではなく、基本・基礎に徹底的に、無心で、忠実に、ということを言いたいのです。

「型」とはつまり、守らなければならない「基本」のことなのです。

●たとえば自分の好きなことに応用してみる。

サントリーホール天井

なんでもかまいません。オワコン(?)ばかりじゃなく、今の時代の最先端を行くようなカッコ良いことでも、成功者の生き方でも、モテる男の女の口説き方でも(笑)良いのです。

その人には、「型」があるはずです。

「流儀」としてもいいし、「なになに節」でもいい。それを、最初は無心で徹底的に学びます。このときに大切なことは、「学ばせていただくという謙虚な気持ち。

自分が師匠に選んだ人のすることを、いやぁ、そりゃちゃうやろ、と自分の意見をのっけからさしはさんではいかんのです。その人を「師匠」にえらんだのはあなたです。自分が「型無し」にならないためにも、師匠の型は、絶対です。しょっぱなからあーだこーだ言っちゃ、いけない。この段階はまだ、「守」なのですから。

自分が師匠の型を長い間、無心で真似していたら、あるときにぽろっと、師匠の型にはないものが見えてきます。そのときが、「破」のとき。

好きなバンドのリードボーカルが出す音域以上の音が高音低音どちらも出せるようになったり、師匠に選んだ人の動画よりも自分の動画のフォロワー数が多くなってきたり、語学の講師の先生が知らないようなスラングや若者言葉を自分が理解できるようになったり。

でもこの段階ではまだ、トライアンドエラーなのですよ。一歩進んで二歩下がる、なんてことはざら。ゴルフでいうと、まっすぐな右肩上がりの直線どころか、下降ぎみにすら感じられる停滞期。

でも、型を忠実にまもりつつ、トライアンドエラーを地道に繰り返していると、次第にうまく行く回数が安定してきます。このときがそろそろ、「離」の時期。

好きな画家や文筆家の「型」を無心で学ばせていただいていたら、その人とは違う、自分らしい絵が描けるようになったり、違う文体で書けるようになったり。

「守破離」の話は奥が深いし、私も小さいころから今にいたるまで、ずっと実践していることなので、また明日もこのことについて書いてみようと思います。