「宇宙のソース(Source of universe)」と呼ばれる無限の世界・叡智・知恵・意識があります。有限の顕在意識ではなく感覚を通して宇宙のソースとつながることで才能を開花させるための方法を3つ、書きます。
昨日は下の記事を書きました。
●感覚を通して宇宙のソースとつながる。方法3つ。
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昨日私はこのブログで、「感覚を大切にすると、「ソース」と呼ばれる人類の普遍性につながることができます」と書きました。そして、私が「ソースとつながっている」とよく感じる瞬間は、「楽器を演奏しているときと、日本語や英語で文章を書いているとき」とも書きました。
不思議な力に導かれているようなひとときです。そのときに、アイデアがわいてきたり、集中力が超人的になるのが自分でもよくわかります。
けれど、これは「ソースとつながる」「宇宙とつながる」と言っているだけでは実はつながることができません。なぜなら、私たちは年を経るごとに、「アタマ」の影響を受けるので、あーでもないこーでもないと「考える力」のほうにひっぱられやすいからです。
だからこそ、アタマの限界を迎えるぐらいにとことん考えたり、とことん肉体を駆使したりすると、「その瞬間」がやってくるのです。
勉強、仕事、スポーツ、楽器の演奏、なんでもそうです。
方法は3つあると私は思っています。
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1) 無我夢中で、とことん、やる。
2) 煮詰まるぐらいに、いつもそのことを考える。
3) ときおり、ふっと力を抜く。
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私の実体験や感覚にもとづいて、1)~3)の理由を書いていきます。
1) 無我夢中で、とことん、やると、自分が「ここではないどこかへ行く」瞬間が訪れます。自分が消えるような感覚。それが、「無心になる」と表現されたり「われを忘れる」と表現されたりするのだと思います。
私の場合は楽器の演奏だったり文章を書いているときだったりするわけですが、アスリートならマラソンや競技などのスポーツをしているときや基礎レンをしているときでしょうし、研究者ならとことん研究しているときだと思います。
2) 煮詰まるのはとてもつらいことですが、それがピークに達したその後、「降ってくる」ことがあります。それは、いつもいつもそのことについてアタマで考えているからです。あるいは1)のとことん、何かをしていたあと。
基礎レンをとことんやったり譜面をさらったりしていて、難しくて何度何度も練習するけれど、うまくいかない。けれど、なきながらでもあきらめずにやりつづけていると、すっと抜ける瞬間が訪れます。
それが、「降ってくる」ということ。
米国に留学していたときは、英語ができずに悩まされました。授業をテープおこししたり(dictation)、ネイティブと話したり、現地のテレビやラジオをとことん見たり、教授に泣きついたり、つねに「英語漬けで英語のことを考える」生活を送っていたら、あるときすっと抜けている自分が分かりました。
さいしょはアタマをつかっていたかもしれませんが、それに限界があること(有限)をしだいに感じ始めたのだと思います。だから、アタマのキャパを超えて、無限の知性と言われる感覚のほうが勝って、感覚で英語を習得していきました。
宇宙のソースに導かれるように。
3) 何度かこのブログで書いていますが、不思議なことに人間は、つねに120%の力でつっぱしることはできません。私などは自分の集中力の限界がマックス50分であることを長年の経験からつかんでいますし、学校の授業も50分たつと休憩が入ります(大学以上は1時間半前後が一コマですが)。
緩急を大切に、1)2)を超人的にやったのちは、あえてふっと力を抜く時間を設けます。瞑想してもいいし、好きな音楽をゆっくりきくのも良し、旅行をしたり、無心においしいものを食べたりしても良し。とにかく、休憩も「とことん」やります。頭をからっぽに。
そうしたら。びっくりするような「GIFT」が神様から送られてきますよ。
楽器の演奏であれば、休んだおかげで調子が上がって、次回の練習がこれまで以上にうまく行く。
英会話であれば、ひらきなおりがでるのか、なんだかすらすらと英語が自分の口をついて出る。
ゴルフであれば、あんなにスイングに悩んでいたのに、ボールがまるでピンポン玉でもあるかのような、「芯を食う」スコーンと抜けるいいあたりが出せたりする。
もしこんな感覚を経験してみたい、と思われるかたがいらしたら、だまされたと思って、1)ー3)をやってみてください。
「ソース」とつながりますから。
●口コミレビューと定性分析
ECサイトにある口コミレビューはほぼ、体験者のかたがご自身の言葉でその商品やサービスについて語っていますよね。「私がAIで数値化したところ」とか「Excelで計算したところ」なんて書き込みは、私自身は見たことはありません。
小説も書かれるんじゃないか、と思われるような文学的な表現をされている書き込みもあります。つまり、多くのレビュアはご自身の感覚をよりどころに、「こんな感じだった」「あんな感じだった」「私はこう感じた」と感想をかいておられる。
もちろん、過去や他人の文献を引用したり比較したりして、論理性に根差した文章を書いておられる方もいる。けれど、「感想」は「感想」です。
だからこそ、読み手は使用者の生の声を自分に引き寄せて考えることができるのだと思います。数値には感情がありませんので、自分に引き寄せるのは多くの人には至難の業です。けれど、感想には生身の人間の「声」が多かれ少なかれ込められていますので、親近感を無意識に感じながらイタコできるのだと思います。
「レビュが書いてあるからどこどこのサイトを利用しています」という若い子に会ったことがあります。その子は靴を買うときに、見知らぬ人が書き込む「実際にこの靴を購入してみたら、こんなとこが良かった。こんなところがいまひとつだった。使い心地はこうだったああだった」という「感想」を参考にしているのだそう。感想とはつまり、書き込んだ人の感覚に基づいた思いですよね。
ECサイトはお互いの素性が分からない分、書き手もへんなしがらみにとらわれることなく、自分が本当に感じたことを正直に書けるのかもしれませんね。
私が青学ビジネススクールに通っていた時、証券アナリストの仕事を疑似体験する授業を通年に受講した話はこのブログの別カテゴリー「働きながらMBA」で何度か書きました。
そのときに、同じクラスの友人から、「分析なんだから、自分の感想は書いちゃだめだよ」と指摘されたことも書いています(私が仲良くしてもらっていた男友達からの指摘でした)。
けれど私は、上記のような、多くの人たちが他人の口コミという「感覚に基づいた感想」をとても重視している点を無視することができないのです。
もちろん、私だってそうです。他人から数値でどうとかこうとか、と説明されるよりも、「こないだ食べたなになに、すっごくおしいかった!」なんて感想を聞くほうが、「へぇ~そうなの?私も試してみようかな」と言う気持ちにおおいにさせられます。
だから、他人の「感覚に基づいた感想」を「ベンチマーク」にして、株を購入する人がいてもおかしくない、というのが私の考えです。
★この企業の株はいい。なぜなら株主優待がこれこれでいいから。
★実際にこの企業の製品を利用している。使い心地が良い。なぜならこれこれこういう最先端の技術を利用した素材なので。だからきっと、将来性もあるんじゃないか。
★この企業の実店舗を多数利用している。どこも愛想が悪い。二度と行くもんか、と思うこともある。そう思う消費者は他にもいる可能性がある。だから、徹底的に社員教育をしない限り、マネジメントがどんなに「サステナビリティ経営」うんぬんといおうとも、いずれ傾く可能性はある。
定性分析の際、すぐれたアナリストは自分でその業界や企業の商品を実際に使用してみたり体験してみたりして、そこから自分の「感覚」に落とし込んで分析していくのだそう。
私が銀行員だったときに上司だった人はその後、日経ベリタスに名が出てくるような小売専門の有名アナリストになりましたが、彼は下積み時代にアナリストの身で自ら小売業に飛び込んで、しばらく現場で働いたそうです。ひょうひょうとして頭の回転も速く、感覚が鋭くて面白い上司でした(ちょっととんがったアニキ、といった感じ)ので、定性分析ではおそらく、「自分の感覚を最大限に大切にした、生の現場体験」を書き連ねたのだと思います。それが彼をone and onlyな存在にして、たくさんの投資家から信頼されることとなった。
感覚をあなどってはいけない。感覚を大切にできる人は宇宙のソースとつながります。そして、宇宙のソースにはさらに多くの人たちもつながっている。つまり、宇宙のソースにつながることは、多くの人々とつながることができる、ということなのです。
それがおそらく、「世界のNONAKA」野中郁次郎・一橋大学名誉教授がおっしゃる「場」ってことなんじゃないのかなぁ、と思ったり。
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