「感覚」によるコミュニケーションー非言語コミュニケーション(non-verbal communication is based on one’s “feeling.”)

●人の「感覚」にもとづいてされるコミュニケーションー非言語コミュニケーション

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人がアタマではなく「感覚」でほとんどのコミュニケーションを他者とやりとりしていることがわかるのが、非言語コミュニケーション(non-verbal communication)です。

この分野は言語学をはじめとするアカデミックな世界でもよく研究されているので詳しいかたも多いと思います。

今日はアカデミックな分析というよりも、私の実体験にもとづいた「非言語コミュニケーション」について書くことで、「人はアタマではなく感覚に基づいてコミュニケーションを行っている」ということを表現したいと思います。

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人は人とのコミュニケーションの半数以上を、「非言語」で行っているといわれることがあります。

言語コミュニケーション(verbal-communication)が「言葉の額面」、つまり「言葉そのものが持つ意味」だとすれば、非言語とは私の経験やまわりの話から以下のようなものがあげられると思います。

◆声のトーン

◆目線、視線

◆表情

◆言葉尻り

◆速度

◆抑揚

◆ジェスチャー

◆声の大きさ

◆タイミング(ブレスポイント)

◆呼吸

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たとえば。

言葉の額面だけであれば、「ありがとう」という言葉はお礼を言っていることになる。けれど、次のように言われたら、ひとはどんなふうに受け取るでしょうか。

★強い怒声で「ありがとう!」という。

★場違いなほどの大声で「ありがとう!」という。

★一瞬、「間(ま)」があってから一本調子で「ありがとう」という。

★目をあわせずに、言葉尻が聞こえないほどに「ありがと(う)」という。

★ものすごい速さで「ありがとう」という。

★ため息のような大きな一呼吸をついてから、「ありがとう」という。

 

アタマで理解する人はおそらく、言葉の額面そのままで「ありがとう」と受け取るのかもしれない。けれど、そういうひとは少数派だと思います。KYと受け取られかねないですし、それではロボットになってしまう。「他意」というものが通じない。

感覚を頼りに、上記の★印の言い方や目線のあわせかたなどから「なんかへんだよね」となるのが多くのかたがたではないでしょうか。

 

私が人と話していても、「いまのいいかた、なんかへんだったよね」とか「あの人なにがいいたいんだろうね」となることが多いです。私を含めてそれぞれ、感覚をたよりに非言語の部分もコミュニケーションの一部だと受け取っている。

●けれど、言葉の額面をあえて大切にしてコミュニケーションをとろうとする文化もある。非言語コミュニケーションの共通項が少ないからだと思う。

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「言葉の額面」どおりに人はコミュニケーションをとっているわけではなく、非言語コミュニケーションの部分で「他意」を感じ取っている。

けれど、低コンテキスト文化であれば、社会全体で共有している共通項が少ないこともあり、非言語コミュニケーションと合わせて、「言葉の額面」=言語コミュニケーション、の比重もものすごく高くなります。これは私の実体験からそう感じました。

高コンテキスト文化の代表とされる日本であれば、次のような非言語コミュニケーションは他者にその意味を理解させることが比較的容易だと思います。

★無言でお辞儀をする。

★女性が口元に手をあてる。

★お相撲さんのように「りっしんべん」を宙で書く。

★たとえば、「お茶でもいかがですか?」と来客にすすめると、「いえいえ、どうぞおかまいなく」という。

★「お茶漬けでもどうどすか?」と言う(都市伝説?京都伝説?)

それぞれ、言葉がなくとも、「挨拶している」ことや「はじらいやてれを表している」こと、「謝罪していること」「感謝を表していること」「帰宅を促されている」などを感じ取ります。感覚を頼りに。

けれど、低コンテキスト文化で「りっしんべん」を書いてももちろんん、通じません。笑 相手との共通項となっていないからです。どんなに感覚が鋭いひとたちで、お互いに感覚をたよりにコミュニケーションをとろうとしても。

だから、言葉そのものの額面がとても大切にされて、「他意なく、言葉を命綱にやり取りしていきましょう」ということになる。言葉の額面そのものを「共通項」として。

低コンテキスト文化の代表である米国で、英語が「数学のように聞こえる」のはおそらくそのせいだと思います。アタマでやりとりしているような気がしてくるから。

A+B=C という数式が数学の正解だとして、一人がもういっぽうに「A+B=」と問いかければ、もういっぽうは「C」とシンプルに即答するようなところが英語にはある。以前私はこのブログの「英語脳」の説明のときにそう書きました。

  小山ケイ過去記事】英語脳ってどんな脳だろう?ライザップイングリッシュの広告から考えた。

「昨日は何を食べましたか?」と聞かれれば、「鮨です」とか「とんかつです」と米国人は英語で答える。

けれど、日本語はこうならないときがある。行間をつくりだそうとするのか、「昨日は何を食べましたか?」と聞けば、「昨日はうちの孫が突然訪ねてきてね。ずーっと夕方から二人で話し込んでたのよ(だから、夕飯には何も食べませんでした。と言っている)」

それがもしかしたら、「ドライだ」と言われるところかもしれないですね。感覚でやりとりするのではないから。「何々は召しあがりますか?」と言われて、「遠慮」という非言語コミュニケーションの意味で「いいえ、けっこうです」というと本当になにも出してもらえない、とか。

このあたりも私の長年のライフワークみたいなものですから、またいずれいろいろ書いていきます。

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