今日の記事では、コミュニケーションにおける「ノイズ」について書いています。
<もくじ>
●ノイズに気をつける。
●コミュニケーションのなかのノイズ。
●克己心を持つことと、コミュニケーションや「場」から何かを創り出したり発現したりすることを目的としてみる。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事はカテゴリー「徒然なるままにひぐらし。」で人生ドリルとして書きました。前回このカテゴリーで書いた記事は下からご覧になれます。
●ノイズに気をつける。
米国の電話会社AT&Tが約100年ほどまえに50%出資して設立したベル研究所。ベル研究所は電話を通じさせるためのモデルを描きました。それは、人対人のコミュニケーションモデルとしても応用されています。このことについては以前、このブログで取り上げました。
コミュニケーションのなかには「ノイズ」と呼ばれる障害があります。電話モデルでいえば雑音だったり電気の不具合だったり。私はこのモデルから人のコミュニケーションにおいても「ノイズ」を感じることがあります。私が思うノイズは以下のようなものです。
★虚栄心。
★自己顕示欲
★営業・勧誘目的。
★相手の意図(コミュニケーション以外に「意図」がある場合)
★ステレオタイプ
★ふりまわし。
★年齢のわりに幼い言葉遣い。
★多数の文法・敬語の間違い(人様に対して「ご拝読いただけましたか?」と聞いたり)。
★Upspeak(語尾や単語の最後部が不必要にしり上がりになる話し方)
★不必要に同意を求めてくる話し方。
★自分中心に話をする。
★愛が感じられない。笑。
もちろん、これらは自分自身も発しないようにと気を付けている「ノイズ」。ノイズが存在することでコミュニケーションのなめらかな流れを阻害したり、思考の流れをブチ切ったりするからです。
では詳細を見ていきましょう。
●コミュニケーションのなかのノイズ。
★虚栄心。→ 自慢話をしたり話を「盛る」ことに終始しやすい。笑
★自己顕示欲 → 自分はこれだけのことができる、こんなすごいものを持っているなどなど、コミュニケーションは他人から自分が盛り立てられたり、自分をかがやかせるための道具に過ぎない。自己顕示欲旺盛な人間にとっては。
上記いずれも、昨今よく耳にするマウンティングにつながりかねません。聴いているほうが疲れてしまいます。相手に利用されているだけですので。時間ももったいない。
★営業・勧誘目的。→ 自分のビジネスや信仰する宗教の勧誘など。
★相手の意図(コミュニケーション以外に「意図」がある場合)→ 言葉の額面がわりと軽視されることから気づきます。あるいは話題がどこか違うところに持っていかれそうになる力を感じて。
★ステレオタイプ→ 相手が他の人間に対してステレオタイプという鋳型にはめ込んで話をすると、ずれが生じやすい。そのずれがノイズとなります。
★ふりまわし。→ これも言葉の額面がわりと軽んじられやすいので、額面通りにうけとれないことが次第にノイズとなることがあります。
★年齢のわりに幼い言葉遣い。
20代前半ぐらいまでの若者が流行語をつかったり文法がおかしかったりするのは世の常だと思います。けれど、40もすぎた人間が、たとえば自分の親について上司に表現するときに「ぼくのお母さんが、お父さんが(いずれも実の)」とつねに表現しているようなら、誰かが教えてあげないといけない。
★多数の文法・敬語の間違い(人様に対して「ご拝読いただけましたか?」と聞いたり)。
「文法・敬語の間違い」は少しの違いは私を含めて誰にでもあることです。でも「多数の」となると一朝一夕にはなおせません。かなり若いうちからこつこつと日本語をしっかり勉強していくしか方法はないのです。語学の勉強と同じです。「拝読」や「拝察」などが自分をへりくだって表現する謙譲語であることは国語の授業で習います。
★Upspeak(語尾や単語の最後部が不必要にしり上がりになる話し方)
これは先日、このブログで書きました。過去記事を参考になさってくださいね。
小山ケイ過去記事】Upspeak vs. Downspeak
★不必要に同意を求めてくる話し方。
相手を自分の味方にしておきたいのかあるいは下にしておきたいのか、ことあるごとに「~ですよねぇ?」と同意をもとめてくる人がいる。同意できることももちろんあるけれど、違いを感じることもある。その違和感がノイズとしてコミュニケーションの流れを阻むことがあります。
★自分中心に話をする。
いつまでたっても相手は視点を相手やまわりに向けることがないので、話がその人のことに終始することになります。そうなると、「相手の話に付き合わされている」というノイズが聞き手役やまわりのなかに発生する。
★愛が感じられない。笑。
敵意はそれ自体がノイズです。相手から敵意を感じると、話の内容よりも相手の敵意のほうに意識が行ってしまいます。敵意だけではありません。相手はそのつもりがないとしても、「心ここにあらず」だったり、相手が「it or none」と話をしてるかのようにふるまえば、それが違和感というノイズになります。
●克己心を持つことと、コミュニケーションや「場」から何かを創り出したり発現したりすることを目的としてみる。
上記の「多数の文法・敬語の間違い」は上記の通り、一朝一夕にはなおらない。けれど、そのほかのノイズは「克己心」や「場の創造性」を大切にしようとさえすれば、その瞬間から減少されるものだと私は思っています。
克己心とはまさに、上記のほぼすべての「ノイズ」がない心の状態です。もちろん宗教家でもない限り(いや、宗教家でもむずかしいかも。笑)、完全なる克己心のもとにコミュニケーションを進めることは至難の業です。自分に好きな音楽のジャンルがあればついそちらを持ち出して話してしまうこともあるかもしれない。
場の創造性とは、コミュニケーションをより生産性あり新規性あるものにするというクリエイティビティ。平たく言って、何かが生まれてくるのをわくわくするようなやりとりであり、年寄の繰り言のような(?)「毎度毎度、同じ話題や噂話が何度も繰り返される」場やコミュニケーションではありません。
これはかなり高度な目的意識がもとめられます。若者がよくいう「意識高い系」ってやつかもしれません。笑 けれど「意識高い系」だけだと克己心レベルはやや低めでありやっぱり中心は「自分」です。「自分が」なにかを得ようという意識。それが高いのが意識高い系。
場の創造性やコミュニケーションによってなにかが発現してくるのを待つ姿勢は、自分の我を自分の奥底か、もっと言ってしまえば、宇宙や「あの世」においておく感覚です。どちらかの利害を超えた、社会や地球、未来の世代のためのコミュニケーションということもありえるからです。
ある程度の年齢も必要だと思います。若いうちはまだまだ自分との折り合いをつけることに四苦八苦しやすいため自分にとらわれてしまいます。私がそうでした。けれど、20代も半ばをすぎたころから次第に、精神の安定性と自分に対する安心感が得られやすくなるせいか、自分にこだわる必要がなくなります。
そのあたりから他者とのコミュニケーションが俄然、おもしろくなってくる。
ノイズの少ないコミュニケーションも図れるようになってくるので、双方やグループ内で建設的で生産的なやりとりが可能になります。それにより何かを創造したり発現したりすることが楽しみとなる。だからこそコミュニケーションがおもしろいと思えるのです。
未成年のころは近親憎悪で他校のタメにケンカをふっかけていたりしても。笑
つまり、それらを楽しみにできる人でなければ、いくつになってもノイズだらけのコミュニケーションであり、相手に対して何のインスピレーションも与えられない人間でありつづけるということになります。近所の井戸端会議ならそれでもOKですが、ビジネスでこれは致命的です。