今日の記事では、自分が「マス」として扱われることに気づく重要性について書いています。
<もくじ>
●「マスとして扱われる自分」に気づく。
●自分が「マス」として扱われることに気づくことの重要性。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで人生ドリルシリーズとして書きました。同じカテゴリーで書いた前回の記事は下からご覧になれます。
●「マスとして扱われる自分」に気づく。
私が2012年からテレビを物理的に有していない生活を送っていることはこのブログで何度か書いています。
小山ケイ過去記事】「テレビのない生活」と「ネットのある生活」を実践中の私から。
理由はさまざまですが、いちばん大きな理由は上記の記事でも書いたように、「テレビ側の人間のエゴ・意図を一方的に押し付けられること」に強い不快感とストレスを年々感じ始めたことです。
それも、たいした才能もない人間からのおしつけ。
たいした努力もしてこなかった人間からのおしつけ。
入社するための競争率が高かったからなのか、入社できた人間(あるいはかかわる制作側の人間)は「視聴者を代表する立場」か「視聴者の心理が手に取るようにわかる人間」であるかのように勘違いしている。
だから、いつまでたっても次のような番組や手口がテレビから消えることはない。
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★出演者たちによる派手なケンカをわざとあおる(つまり、やらせ)。
★若い女の出演者には頭のねじが一本以上はずれた「女」を演じさせる(視聴者受け、もっと言えば、男受けねらい)
★迎合主義。(さっこん、NHKですらTwitterやYouTubeからの情報をニュースとして放送する)
どこか「視聴者、とくに女はアタマが悪い」と思っているふしがある。いや、思われているように感じざるをえない。
自分がマスとして扱われていると感じる先はテレビだけではありません。
マスメディアのもうひとつの代表である新聞もそう。だから少し前に読売新聞による「美術女子」なる、テレビ局の上記星印(とくに2つめの★)の二番煎じのような企画が出される(社会問題化しました)。
ひとりひとりの視聴者・聴視者や読者を丁寧にヒアリングしていけば、上記の星印のような演出に不快感や違和感を感じる人がいることや、出演者・製作者以上に才能があったり情報通であったり能力があったりする人間が多い、ということに気づくと思うのですが。
おそらくマス=視聴率・購読数、なのでしょう。
一個の意志を持った個人としてますます行動範囲(表現を含めて)が広がる現代人は、まずは自分がマスメディアを中心に「マス」として扱われることがあることを意識する必要がある。
全体主義の時代(Totalitarianism)はとうに終わりを告げているからです。
政治も例外ではありません。
●「マス」として自分が扱われていることに気づく重要性。
たしかに、居心地の良さを感じることもありますよね。大勢の人たちと同じような好みや趣味、感覚を共有しているとき、「あー私ひとりだけじゃなかったんだね」と思えます。
自分が気に入っているカフェやスイーツがマスメディアでも取り上げられ、「女性に人気です」と紹介されたり、自分が感動した芝居や映画、音楽が「いいと評判です」と取り上げられたり。
お仲間が他にもいたわ、と嬉しくなります。
けれど、自分が「その他大勢」というマスとして扱われる危険性にはつねに注意が必要です。
大勢を個人個人ではなくマスとして扱うことで都合よくなる人たちがいるからです。
◆テレビ制作者
◆芸能プロダクション
◆テレビ局
◆新聞社
◆政府
第二次世界大戦に突き進んだ日本がそうでした。国民を「その他大勢」として扱うことで軍部は日本を参戦させました。嘘の情報やプロバガンダを利用しながら。早稲田の理工学部を出てから大手造船所に勤めていた私の大叔父は私の祖母に戦時中、「日本はこの戦争で負けるよ。軍部はまったく分かってないが」と家族の中だけで打ち明けたそうです。造船所にいれば海外とやり取りすることも多く、米国の国力や軍部の力も大叔父はよく認識していたそうです。
そんなことが二度と起こってはならない。
官僚の定年を延長させようとしたり、違法に買収してでも票の取りまとめを行おうとする国会議員がでてきたり(マスという国民を欺けると確信しながら)、なんてことすら現代でも起こるのです。
自分が「マス」という大衆であり、そう扱われることに居心地の良さを感じることもある一方、それを自分たちに有利に操作しようとする上記のような人間がいる、ということにも十分注意を払わなければならない、ということ。
「マス」に対して情報操作された「やらせ」を完全に信じて行動し、それによって命を奪われる人がいる。
完全に信じて行動した側は、テレビ局側の見えざる「台本」に完璧にのっとって洗脳されていたとも気づかずに。視聴率・話題性を上げるために操り人形として利用されたことにも気づかずに。
さいきん、著名な芸能人のかたたちがやたらYouTubeへ乗り出してきました。
斜陽産業のテレビからYouTubeへも活動の場を広げた先駆者のかたたちの活躍や自由な表現を観たからかもしれません。
おもしろい芸人さんが「個人として」表現の場を個人主体のYouTubeへとシフトさせて、世界からも「いいね (Like)」と言われれば、それはそれでまた、芸能人さんにとってもはげみになることでしょう。
けれど、その芸能人さんや所属芸能プロダクションがYouTube視聴者を「マス」として扱い、人を死に至らしめるような「やらせ」に走ったり、Twitterなどでの過激な行動を促すようにあおるとしたら。
第二次世界大戦の軍部がしたこととなんら、かわりない。
自分が「マス」として扱われることによる危険性は、居心地の良さを感じる扱われ方と裏表である、ということを私を含めた現代人はつねに意識する必要があると思います。