今日の記事は
AIと人間の能力について書いています。
●人間の能力が発揮される芸術・アート・エンタメの領域。
●潜在意識を軽視しない。
昨日の記事は以下のサイトからごらにただけます。
●AIが取って代わることのできない人間の表現能力=芸術・アート・エンタメ
「これから5G/8Kの時代です!スマホでリアル感ある画像のドラマが観られます!!」みたいなCMやPR、よく目にするようになりましたが、私のような筋金入りのコアな映画(動画)ファンは、「ドラマ観られるたって、大根役者ばっか出てるドラマ、観たかないよ」「日本の芸能界で事務所の覇権争いに勝って主役になったポット出が出てる日本のドラマ、なんでわざわざスマホで観るかいな」という気持ちになります。
人をバカにしてる、という気にさえなるときがあります。製作会社、動画会社の「とりあえず流しときゃ観るだろ。5G/8Kなんだから」という根性が透けて見える(ような気がする。誤解であったとしても)からです。
6歳のときに私が将来なりたいと思った職業は、ピアニストと画家、です。どちらも当時から私が習っていた習い事です。芸術やアートは小さいときから私の発達過程や生活には切っても切れない存在でした。
それはおそらく、私だけじゃなくって、バレエ、バイオリンを習ったり、絵をかいたり、芸術・美術系の大学へ進んだり、歌舞伎・文楽鑑賞、音楽・美術鑑賞、芝居鑑賞が趣味、あるいはそれらを仕事にされている、という人の多くにも共通することだと思います。
それゆえ、「これからはAIの時代。だから人間の仕事はほぼすべてAIに奪われる。奪われないのは芸術・アート関係だ」なんていまごろになって理系インフルエンサーに言われても、んなのとーっくの昔にうちら、知ってるってば、と私は冷めた調子で言いたくなるのです。
ふん。笑
そこで今日は、AIに奪われるわけないじゃん、ということしかしてこなかった私から、すこし、芸術やアート、そしてAIがおいつくことのできない無限の可能性を秘めている、人の潜在意識とのつながり、について書いてみようと思います。
AIが書いた小説が公募で1次予選通過、みたいなことが新聞の記事になっていたときがありました。遠い将来には、人を「感動」させる域にまで達した物語を構築できるAIが登場するかもしれません。(AI研究者はどーやっても『AIはエンタメもイケる!」と立証したくてしょーがないらしい。笑)
でもそのためには大前提があります。まずはじめに膨大な数の「人間」が膨大な数の「小説」(ギリシャ悲劇やシェークスピアを含めた古今東西の)を「データ」として入力しなければなりません。
なにもないところからAIがいきなり「吾輩は猫である」とは書き出せない。
Aiboだって、飼い主がいっしょうけんめい、「愛情」を注ぐ(データ入力)ことで育っていくわけです。
それぞれの小説家のクローンとなってその小説家節、みたいなセリフや構成、物語は作れるかもしれない。でも結局、後追いです。その小説家さんだって生きていれば進化・深化しつづけているはずです。それが「表現の世界」だからです。
ただし、「すでに亡くなってる小説家が生きてたら、こんな小説を書いたかもしれません」のような視点のエンタメはAIで生まれそうですね。それでも、上記の大前提は、同じ。
某大手米国IT企業に勤める友人いわく、「本国ではMITの学生をアルバイトで雇って大量のデータをインプットさせているところ」なのだそう。
けっきょくさいしょは、マンパワーが必要になります。
だから、「人間の体のどのパーツがAIにとってかわられる」とコンコンと話す人がいても、「人との共生という点では本当にすごい、と思うけど、とってかわられる、という発想は違うような気が・・・」というのが私の率直な印象です。
そのパーツを作るためにさいしょにいろいろな設定をするのはマンパワーでしょうし。
そのための仕事も新たに生まれる可能性がある。AIという優れた科学技術を用いて、人間の生活や能力そのものが、もっと豊かに、幸せに、広がっていく、というのが私がAIに対して抱くイメージです(もちろん、いいイメージ)。
どんなふうに私たちがAIによって幸せになっていくのか、考えるとわくわくします。卑近な例だと、健康長寿のおじーちゃんおばーちゃんが急増するとか。ピンコロで。たぶん私を含めて。笑
「世界のNonaka」である、一橋大学の野中幾次郎名誉教授は「形式知と暗黙知」について述べられました。AIがどれほど進化をとげても、「人間の暗黙知」の部分を代替する能力はおそらく、半永久的に生まれないだろう、と私は思っています。
いまのところ、「AIでできる、とってかわれる」、とちまたで噂されている部分は、「形式知」に含まれるものばかりだからです。
マニュアル文書で表したり、たいした経験を必要としない仕事だったり、単純作業だったり、付け替え可能な機能だったり、数日で習得できることだったり。これらの反対側にあるのが、人の潜在意識に潜むといわれる無限の能力です。
町工場で長年、小さな部品を長年の勘と世界最高峰の高い技術力で生産する能力だったり(「痛くない注射」の岡野さんの岡野工業や池井戸潤さんの小説「下町ロケット」の物語のような)楽器をプロとして演奏する能力だったり、ゴルフをスコア100以下で回る能力だったり、英語をネイティブと互角に話す能力だったり、文章を書いて読み手を感極まって泣かせる能力だったり、芝居で観客に涙と拍手の感動を与える能力だったり、映画やテレビドラマで役者が観客を「本物のワルが現れた」と心底怖がらせたり、ミュージシャンが聴き手の心を揺さぶったり、人間関係の悩みや仕事上の問題などを上手に、気持ちよく解決する能力だったり、進行性の病気を自力で完治させる能力だったり(もちろん、西洋医学ではその理由は説明できないことがほとんどです)、「次のランナーを楽に走らせてあげたい」という一念のもと、これまでの大会では自己記録としてはまったく出したことのない大記録を出して、2位以下の他チームを大きく引き離すことに成功する駅伝走者の能力だったり。
数え上げたらきりがありません。この潜在能力は、AIがほぼ代替不可能な芸術やアートを生み出したり、それを楽しんだりする能力とつながっています。
ひらめき、直観、予知能力(虫の知らせ)、長年培った経験から導き出す能力、いままで見たこともないことを世に送り出すCreativityなど。
●潜在意識を軽視しない。
感情や感覚の力を大切にすると、芸術やアート、エンタメがすごく楽しめます。つまり、それらを軽視して小難しいことを言い出すと、そのひとは論理性に偏ってしまい、人を感動させたり共感させたりすることが難しくなります。
たとえばプレゼン。プレゼンテーターが自分の感情や感覚に根差した言葉や表現を随所に盛り込むと、聴いていて親近感や共感性、ユーモアを感じることができるのですが、数字の列挙や博士課程の論文発表じゃないかと思われるほどの論理性に根差したプレゼンをすると聴いているほうは疲れてしまいます。
TEDのプレゼンテーターでそんな人が出てきた記憶はありません。だからTEDはどの会でも聴衆は笑い、うなずき、聞き入り、最後は大拍手で幕をしめ、そしてネットでたくさん拡散されます。人々の感動とともに。
笑顔があるかどうか。
表情はあるかどうか
(無表情ではないかどうか)。
自分の失敗を披歴しているか。
言葉の抑揚は?
ブレスタイミングは?
(ブレスタイミングの場所で
そのセリフの意味が
すっかり変わってしまいます)
アイコンタクトは?
リズムは?テンポは?
しぐさは?ジェスチャーは?
芝居のうまい役者さんのセリフ回しを聴いていると、セリフは歌だとつくづく思います。聴いているだけで次第に、音楽を聴いているような心地よさが生まれて、物語うんぬんよりも、その役者さんが出ているからそのエンタメや芝居が観たい、とすら思えてきます。
「歌舞伎は歌舞くこと」だとよく言われますが、歌舞伎という芝居はセリフも歌なのだと、俳優さんたちの朗々としたセリフ回しや立ち居振る舞いを観ていると感じます。Japanese musical=KABUKIです。
人間であれば、AIが持ち合わせていない潜在意識の能力をぜひ、多くのかたに開放していただきたいと思っています。
「それらは科学的ではない。論理的ではない」と言う人がもしいれば、そのあなたの仕事こそAIにとってかわられてしまうことでしょう。科学性や論理性こそAIの「十八番(おはこ)」ではないですか。ちなみに、「おはこ」は歌舞伎に由来する日本語ですよ。