小山ケイの人生ドリル82-好意について考えてみる。

今日の記事では、「好意について考えてみる」ということについて書いています。

<もくじ>
●好意について考えてみる。
●好意とおせっかいはちがう。
●そのときは相手にとって「好意」に見えなくても、のちのち大きなプラスがもたらされる。
●自分にとっての好意が、相手にとっては重荷となることがある。
●私生活パートナーになりたいという思いも、相手の立場から考えてみる。
●好意のなにが難しいか。

 

このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで人生ドリルシリーズとして書きました。同じカテゴリーで書いた前回の記事は下からご覧になれます。




●好意について考えてみる。

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私もこれまでの長い人生において、「好意」については何度となく考えてきました。

相手はどうも「好意」として行動してくれているようだけれど、こちらにとっては押しつけがましさを感じたり、あるいはそっけないのだけれど大きな「隣人愛」を感じたり。

もちろん、自分がしたことに対しても同様です。

「好意」はとても奥が深い。

以前このブログで私は、青山学院の学生だったときにキリスト教関連の授業で、「愛について」さまざまな古代ギリシャの愛の概念に基づいて勉強したことについて書きました。

自分(相手)の好意はどの「愛」からのものか、によっても受け止め方は違ってくるかもしれません。

 

エロスの愛なのか。

アガペーの愛なのか。

フィリアの愛なのか。

人とのよりよい関係性を築くために、ときおり「好意」について考えてみることは大切だと思います。

そこで今日は、私自身も長年人生ドリルとしてときおり取り掛かっている「好意について考える」ということについて書いていきます。

好意の大前提は、「相手にとってプラスとなることかどうか」

★好意とおせっかいは違う。

★そのときは相手にとって「好意」に見えなくても、のちのち大きなプラスが相手にもたらされる。

★自分にとっての好意が相手にとっては重荷となることがある。

★私生活のパートナーになりたいという思い(夫婦、恋人)も相手の立場から考えてみる。




●好意とおせっかいは違う。

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だれに視点を合わせるか、で好意がおせっかいになることもあると思います。

相手に合わせれば「好意」であり、自分にあわれば「おせっかい」となるかもしれない。

先日のブログ記事「気働き」でも書いたことですが、相手に視点をあわせながら「おせっかい」ではなく「相手にとってプラスとなること」「相手が豊かになること」となるために重要なことは、「想像力」「相手を大切に思う心」です。

相手に視点を合わせているようでも実はその深層心理にこんな気持ちがあったらやっかいです。

★相手が(かならず)喜んでくれる。

★相手から感謝される。

★じつは勘違い。

 




●そのときは相手にとって「好意」に見えなくても、のちのち大きなプラスが相手にもたらされる。

「社会からの好意」がいちばんわかりやすいと思います。

子どものときはそれが「好意」だと分からなくても、大人になるにつれ、自分が多くの人たちの好意によって支えられているということがよくわかります。

インフラしかり、社会的な安定しかり、教育しかり、経済活動しかり、娯楽しかり。

小さいときに友だちから受ける好意すらも気づけないことがある。

だからこそ、大人になるにつれ、人や社会からの好意には気づいたら感謝したい。それが自分にとってプラスの出来事がもたらされているのであればなおさら。




 

●自分にとっての好意が相手にとっては重荷となることがある。

これも、自分を中心にするか相手を中心にするか、で分かれます。

自分は良かれと思って行動しても、相手からすればかえって負担を感じるということはよくあります。

たとえば自分の体調が悪いとき。

それを知らぬ知人がどこどこへ行こうと誘ってくれたりお茶でもしない?とさそってくれたりしても、気分が乗らないこともあると思います。

鋭い人は他人の体調にも敏感ですが、みんながみんな、他人の体調や心理状態を完璧に把握できるわけではない。

だから、誘った側は「好意」として声をかけてくれていることもある。でも誘われた自分の側は「ど」がつくほど落ち込んでいる最中だったり、体が疲れていたりするかもしれない。

そうしたら、誘ってくれた人の好意も重荷に感じることがあるでしょう。

食べ物もそう。

私もつい人にちょこちょこと「はい、お土産」「これおいしそうだったから」と食べ物で小さなプレゼントをしてしまいますが、相手にもし食品アレルギーがあったら申し訳ないことです。初めて何かをあげる人にはできるだけその前に、「なにか食品アレルギーはある?」と聞くようにはしているけれど・・・。

 

私のまわりには笑顔で「ありがとう!」と喜んでくれる人が多いので、自分の小さな「好意」は彼女・彼らによって受け取ってもらえているように見えますが、それに甘えてはいけない、と日々私も気を付けるようにしています。

 




●私生活のパートナーになりたいという思い(夫婦、恋人)も相手の立場から考えてみる。

自分にとっての「エロスの愛」ですね。

でも相手にとっては「フィリアの愛」かもしれない。

あるいはまったく何も感じていないということも。

自分が相手に対して好意を抱いていても、相手はそうではなかったり。相手と自分の愛の種類が違うと、すれ違いができてしまいます

でも「好意」はあくまで、「相手にとってプラスとなることかどうか」「相手にとって心地よいこととなりえるのか」

 

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●「好意」のなにが難しいか。

好意を難しくしているのは、それが人間関係に基づくことが多いからだと思います。

相手あっての「好意」。

この世の中は、自分独りだけで存在しているわけではない。

良かれと思ってやったこともそうではなかったりする。

難しいですよね。

自然環境に対する「好意」もあるでしょうが、ふつう「好意」という言葉は一番最後に「人」がいることを想定している。好意を与える側は。

団体への寄付金、自然環境保護のボランティア活動、ボランティアとしての講演会などなど。

環境保護活動や寄付金は、未来の人類という「人」に対しての好意です。

この世に自分独りだけが存在しているのであれば、自分が好意にもとづいて行動することは好意となります。でも実際はそうじゃない。相手に大小の迷惑をかけたり負担となってしまうこともありまします。

でもこの世は自分以外の人がたくさんいる。そしてその人達と一緒に社会を作っている。

だからこそ、社会について考えるとき、好意についても考えてみる。そうすることがより豊かで成熟した人間関係につながっていくのではないか、と私は思います。

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