今日の記事では、「自分と対話する」ということについて書いています。
<もくじ>
●自分と対話する。Contemplate in your deep “SELF.”
●自分と対話することの重要性。
●自分と対話する方法。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで人生ドリルシリーズとして書きました。同じカテゴリーで書いた前回の記事は下からご覧になれます。
●自分と対話する。Contemplate in your deep “SELF.”
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私が米国大学に留学したとき、私は深い孤独を感じていました。
オレゴン大学自体は生徒数何万人というマンモス総合大学です。人間はとにかくたくさんいる。
けれど、さまざまな葛藤を私は自身の中に抱えていたものです。
他の米国人大学生ですら、「こんなに人間がいると、友達を作るって感じじゃないね。授業が終わるとさっと教室から出ていくし。淋しいなぁ」と言っていたほどです。
言葉の問題。
文化の違い。
食べ物の違い。
そして、多くの米国人が留学生に対して関心を示さない。
笑顔で接してくれていながら、“Hi! How are you?“のレベルで終わる。「日本はどんなところ?留学するってどんな感じ?言葉の違いってどんな感じ?日本と米国の違いってやっぱりあるの?」などと深いことを聞いてくるひとはとても限られている。
まるで、目の前にいる人は私をひとりの人間ではなくその他大勢の「IT」か「that」とみなしている。そして当たり障りのない会話に終始する。
“つきあいがとてもSuperficial “と教授やnativeの友だちに相談したこともあります。
“Superficial”とは「表面的」という意味です。
「うん、そう他の学生からもよく聞く」とその教授は同意してくれました。
私は自分が日本では感じたことのない葛藤を感じながら、自分が生まれ育った母国を数年出てみることで、自分が「日本」や「日本人である」ということを自分を認識するためのアイデンティティとしていたのだと初めて気づきました。
そのアイデンティティが無視されているような気がしたのだと思います。
私が家族と一緒に米国に来ていたのなら違ったかもしれません。
けれど私は親元を離れて単身で留学しました。
ぞんざいに扱われたり虐められたりしているわけではなく、むしろ「これでもか!」というぐらいのアイコンタクトをとって笑顔で接してくれる人が大勢いながら、なぜか日増しに「自分が消えていく」ような感覚に襲われる。
孤独とは、山中にたったひとりぼっちで生活しているような状態で感じるものではないのだと、私は留学生活で知りました。
大勢の中にいる孤独。
大勢に囲まれていながら感じる孤独。
あの数年間の米国生活で私は、「自分と対話する」ということの大切さと、その方法を自分なりに見つけました。
もしそれができないままかの地でそのまま留学生活を送っていたら、私はきっと卒業を待たずに途中で帰国したか、心身に大きな影響があらわれていたはずです。
(じっさい、カルチャーショックで心身にダメージを受ける人もいます。オレゴン大学に私が留学していたときは、「これ以上ここにはいられない」と泣きながら断念して帰国した友だちもいました)
芸能界で薬物に頼ったり自ら命を絶ったりするかたが後を絶ちません。いっけん華やかに見える世界で深い孤独感を抱えておられるのだろうか、とかつての自分の経験が蘇る気がします。
●自分と対話することの重要性。
自分と対話することが大切なのは、自分が自分を認めるためです。自分をしっかり受け止めるためです。そして、自分に対する肯定感を確保するため。
自分とのしっかりとした対話ができない人は、他人の評価や認識に依拠せざるを得なくなります。
他人が「私」に対して抱く評価や認識によって「私」が確保される。
あるいは自分に対する相手から見た「役割」で。
お母さん
お父さん
夫
妻
部長
上司
先輩
「スター」
「芸能人」
「親」が望む道につねに進むことで親に褒められて認識する「自分」
他人に「あなたはいい人」といわれないと認識できない「自分」
これらを与えてくれる「他人」がいなくなったとき、自分がなくなってしまいます。私が米国留学時代に感じた、「自分がどんどん消えていく感覚」です。
仏教でとく「無我」ではありません。自分の存在そのものが、この世から消えていく感覚。
誰の中にも存在しない「自分」。
だから、「自分との対話」は、自分がこの世で力強く生きていくために必要なことなのです。
●自分と対話する方法。
私が自分で見つけた方法ですので、誰にでも有効ではないかもしれません。また、認知行動療法のような専門的な治療を受けているかたにもそれほど大きな作用をもたらさないかもしれません。
けれど、「自分が自分を認めて生きていく」と決めたかたには、大小にその力が得られるような気もしています。
1) 日々、長い間、無心になれる(ならざるをえない)時間を意図的につくる。
→ 車の運転、自分が好きで好きでたまらない趣味の時間、好きな音楽を聴く時間。
無心とは心がフラットな状態です。戦闘的な気持ちでもいらいらした気持ちでもありません。
2) 物理的に独りになる。
→ 大勢の家族に囲まれているのであれば、独りだけで数時間、買い物や散歩に出かけてみる。
3) 自分のもやもやとした気持ちをブレストで書き出す。
→ 以前、このブログでやりかたについては書きました。
小山ケイ過去記事】人間関係でもやもやするとき。「書き出してみる」。
4) 無音の状態を生活のなかに30分でもいいので作り出す。
5) ときには「この人」という信頼できる人に打ち明けてみる。
→ 日ごろからまわりの人と信頼関係を築く。信頼できる人で自分のまわりを固める。
6) 自己肯定感が低い、と思えるときは、自分がその日のうちにやった数々のことをひとつひとつ、丁寧に思い出し、そしてメモ帳なりに書きつけてみる。
→ 私自身は自分に対して自己肯定感が低いと思ったことはあまりないのですが、「あれをやったこれをやった」とこまごまとメモしていることが、自分の精神衛生と達成感を保っているように思えます。
その日のうちにやるべきことをちくいち書きつけ、それが終われば「OK!」と書いたりばってんをつけたり。
そして、ときどき振り返って「よし、これもやったあれもやった」と確認しています。無意識の領域で。
なになにをスーパーで買う。
どこどこを掃除する。
どこどこの役所に連絡する。
なになにを捨てる。
なになにの届け出を出す。
ウォーキングを30分する。
どこどこへ散歩に出かける。
何々の催し物へ予約する。
(万歩計が)「何歩」。
ストレッチを何回。
上記は私が米国大学に留学していたときにおもにしていたことですが、今の私はこれらにさらに、「瞑想」や「呼吸法」「アファメーション」なども組み合わせています。
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