最終判断は、自分です。なににおいても。

竹下通り

今日は、迷ったときなどに最後の決定打となるのは自分の感覚である、ということについて書いています。

昨日は下の記事を書きました。

●最後の決定打は、自分の感覚です。自分がすべて、判断して行動します。

ちょうど10年前、母校・青山学院にあるビジネススクールに出願しようかどうしようか、私は迷っていました。仕事は多忙を極めていて、寝る以外はほとんど、仕事をしているような状態でした。

でも、MBAは取りに行こうと数年前からなんとなく考えていたので、ある日立ち止まって考えてみました。

「いったいいつ行くつもりなんだろう?私は」

数年前に一橋大学のMBAを受験してみようか、と思い立ち、出願要件であるGMATをはじめて受験してみました。数学の点数はとても良かったのですが、自分が思っていたほど英語の点数はさほど良くなく、ネイティブの壁を感じていました。GMATは英語圏のネイティブも受験するからです。

そこで数年間、GMATをどうするかと足踏みしていたのですが、はたと一橋にこだわる必要がないことに気づき、ここで母校・青山学院が候補としてあがってくることになります。

受験資格や卒業要件などを確かめると、いますぐにでも私は出願できることが分かってきます。では、どのタイミングでアプライすべきなのか。

どうしようか。

やろうか、やめようか。

しばし考えました。

なんとなく、見切り発車のような気もしましたし、さほど下調べもしていなかったから。

でも、結局、迷っていることというと、「やろうか、いや、やめようか」。このたった二つの選択肢の間をああでもないこうでもない、と自分の頭のなかで巡らしているだけなのです。それだけで、何時間、何日も使っていたりする。笑

たくさん選択肢があるなかで迷っているならいざしらず、たった二つの選択肢の間で迷い続けるなんて。不毛です

それに気づいて、見切り発車でもいいから発車しよう、と出願書類を急いでそろえ始めました。

でも私のこれまでの人生、ほとんど自分で判断して歩いてきています。

親に言われたから、親にだめって言われたから、周りがしろっていうから、世間でそれがあたりまえだから、彼氏がやめろっていうから、だから行動しない・みんなと同じことをする、なんてことは私の辞書にはありません(うわぁ。笑)。

うちの親は、私が学生時代、女友達の多くが、「お母さんにだめって言われたから旅行にはいけなくなった」なんて言ったりすると、目を丸くして驚いたものです。

「よそのおうちの子たちは素直にお母さんお父さんのいうことを聞くんだねぇ。あなたじゃ考えられない」

小さいときからしっかり、反抗期が何度も訪れた私を育ててくれた親です。だから、自分の行動をいともあっさりと他人や自分以外の人にゆだねる子たちに心底驚いていました。

人は生きている過程において、何度も何度も、判断を迫られます。

どんなに若い人でもそれは同じです。

だから、自分のことを他人に判断してもらうわけにはいかない。そのひとがいなくなったとき、生きていけなくなるからです。

両親が、彼氏が、旦那(妻)が、息子(娘)がいなくなったとき、そのかたたちに自分の人生をゆだねていたら、判断できなくなります。

次から次へと訪れる「閾値」のような人生のポイントで、先に進むことができなくなる。

だから、最期まで生きていく、と決めた人であれば、自分のことを自分で判断しなければならない。

いくつの人であっても。

そのメリットは、経験値という財産となったり、自信というゆるぎない武器となったり、あるいは人によってはオーラや輝きという美しさとなったりします。

自分で自分のことが決められる人ってすごくきれいですよ。

結局、私の場合も、青山学院のビジネススクールへ出願することに決めた際は、自分の感覚が決定打となりました。

林先生ではありませんが、直感が「いまでしょ!」とささやくのに従って。笑

AIの時代だからでしょうか、「感覚」というものを軽視する人が多いような気が私はするのですが、感覚を大切にすると、人生の分水嶺でその威力が発揮されます。感覚にはその人が生まれてからずっと養ってきた審美眼や、経験の記憶がたっぷり、備わっているからです。

●しんどけれど、やっぱり自分で決めなければならない。自分のことは。

若者のSNSなどで、インフルエンサーと呼ばれるかたや表現者のかたに完全に自分をゆだねて相談してくるかたが多いと聞きました。

まぁ若いうちは悩むのが仕事みたいなところもありますからある程度はしょうがないとしてもそれも不惑の40まで。

人生100年計画がとりざたされているなかで、ご自身にしっかりと認知能力と体力がある健康なかたで(病気をされていたり何かを患っておられるかたではなく)中年以降も人に自分の人生を決めてもらっているとつらくなります。

私はよく新聞の人生相談に目を通すのですが、私よりもはるかに年上のかたたちが、自分の人生をどう決めたらよいか分からない、と相談されているのを見かけます。気の毒だとは思いつつ、若ければ若いほどやり直しがきくのだけれど、とはがゆくも感じます。

自分で自分のことを決めることはときにはしんどい。

でも、それでも、ぎりぎりまでは自分で頑張ってみなければならない。たとえ家族のような近しい人たちであっても、それぞれに生活と人生があるからです。たよれる限界があるからです。

若ければ若いほど、自分で判断したという経験は大きなインパクトとなって蓄積されます。だから若者には自分のことを自分で判断する経験を積んでほしい。

1)自分ができていないことではなく、できていることに意識を向ける。注目する。突破口が見つかったり、自分の能力や才能が見えたりします。

2)声をあげれば助けてくれる人は必ずいる。社会にはセイフティネットも存在します。けれど、それぞれにも限界はあります。

だから、小さな一歩一歩や達成感を大切にしながら、自分でできることを把握していくのが大切になってきます。

3)なにかに迷ったときは、自分が何に迷っているのか、紙やワードテキストなどに書き出して明確にします。それが、2つ3つの選択肢であれば、自分の感覚に従って、いちばんよいと感じる選択肢を選んで行動します。