「ステレオタイプstereotype」とは印刷の型のことです。初対面の相手やよく知らない国・場所・もの・についてさいしょに把握するには「とっかかり」となってくれて便利ですが、人が人をステレオタイプに当てはめはじめると、窮屈な場所です。ビジネスパーソンはもちろんのこと、あらゆる人間関係において。今日は実体験を踏まえてそのことについて書いていきます。
前回、このカテゴリー「徒然なるままにひぐらし。」では下の記事を書きました。
●青山ビジネススクールにおいて体験したこと。
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ある勉強会に参加していたときのことです。私自身の仕事に直接利益はもたらさなかったものの、間接的に将来性と「進化・深化」をもたらしてくれると思われたので、わりと熱心に参加していました。
主催者のかたは参加者ひとりひとりに役割を持たせたり話をふったりしていたひと。そうすることで、その会の参加者全員が主体となって会を運営しているのだ、という能動性を与えたかったようです。
お気持ちはとてもよくわかる。できるトップのひとが組織をまとめるときに使う手法です。さいしょは「さすが、上手だわ」と感じながらよろこんで応じていたのですが、次第になんだか、疲労感を感じるようになってきました。
原因は、私の中に「負のエネルギー」が渦巻き始めたから。
そのかたにとって私の役割は、「翻訳」、「秘書業務」。翻訳のことについて話をするときは私に話をふる。こまごまとしたことをやってほしい、と思ったときは私まで話がくる。
はじめのうちは主催者のかたに調子を合わせていたのですが、会を重ねるごとに、主催者のかたがすでに持っている「答え」に合わせて答えているような自分がとても、押さえつけられているような気がしてしまいました。
「Naiveという言葉が日本語のカタカナとは違って否定的な意味だってコヤマさんなら知ってますよね」とふられたとき、「その程度の翻訳者だと思われてるんだな」と一瞬で疲労感が噴き出しました。「日本の電話番号には+81をつけて翻訳してください」とwebデザイナーに頼まれたときとおなじくらいの疲労感。そんなの基本中の基本です。
それでもって、「nerdというスラングを知りました。辞書にも載っていない」なんて話は、私にはふってこない。通訳者にふる。笑
くわえて、「秘書業務」。
もと銀行員であり長年にわたって会社経営をしている私は、こまごまとした事務手続きなどにも「わりと」ぬかりがありません(あくまで、「わりと」)。そのせいか、友人知人たちと一緒になにかするときにそれらを頼まれることが多いのです。一緒に旅行するときはスケジュール管理とか代金支払いのこととか旅行会社との交渉とか。
それはそれでいい。私が負のエネルギーを感じるのは、誰かを立てるために私の立場が下げられること。英語で表現すると、subordinate being。
その主催者がゲストを呼ぶときは、ゲストに気持ちよく語っていただくためのこまごまとした事務作業が私のところまで来る。主役はあくまで、ゲスト。次に勉強会の参加者。立場としてはゲストが上。参加者も上。私はあくまで裏方の立場あつかい。「私は賃金をもらって働いている秘書じゃないというのに」という思いがだんだんこみあげてきました。
こういうことは、感覚の問題です。「ああ、そんなふうに扱われているんだ」ということがだんだん感覚として伝わってくる。
言葉は悪いですが、「とにかく話をふっとけば、役割を与えておけば、ついてくるだろう、参加するだろう」と思われているように思えました。私には。
彼はステレオタイプを利用していたのだと思います。ステレオタイプは楽な方法だから。そういう役割はこの人、と一度決めてしまえば、慣習に従って頼めばいいだけです。その組織のパーツとして。
固定観念で相手をそのグループに押し込んでしまえば、タグ付けできる。いまふうにいえば。
あらたに、「この人はほかにどんな才能があるんだろうか」と考えたり、別の役割を見つけてしまっては自分が思い描く組織のパーツに当てはまらなくなる可能性があるから。
そして、効率が悪い。おそらく。
●ステレオタイプ(stereotype)とは。
もちろん言葉としては以前から耳にしていました。でもあらためて「ステレオタイプ」について考えるきっかけをあたえてくれたのは、こちらもおなじく、青学のビジネススクールで受講した「ビジネスフィラソフィー(Business Philosophy)」のクラスです。
ある日のお題が「ステレオタイプについて」というもの。ステレオタイプについて書かれたエッセイ(たしか、もともとは英語圏の人がかいたものだったと記憶しています)を読んで、それについて参加者で話し合ったのです。
ステレオタイプは、固定観念、枠づけ、偏見、などと同義語としてとらえられることが多い。
Madonnaの歌に、「アナタが作った狭い部屋にあたしをおしこめないでよね」という歌詞があります。もう20年以上まえに彼女が歌った「Human Nature」の一節です。
★★★★★Quoting from the official YouTube video of Madonna’s★★★★★
聴いた当時の私は歌詞を覚えて歌ってるだけでしたが、年齢を重ねるごとに歌詞の意味が私にも自分のこととして理解できるようになりました。そう、「私自身のこととして」。
「狭い部屋(narrow room)」はいろいろな解釈が可能です。既成概念、固定観念、価値観、偏見、そしてステレオタイプ。
ステレオタイプは便利だけれど、それは最初だけ。そう思わなくてはいけない。未知なるものに対してとっかかりを与えてくれる便利な方法がステレオタイプ。でもそれは一瞬。継続的にステレオタイプをもちいることは、まずは相手に対して失礼。それが国であれ異人種であれ異文化の人であれ。
「あの国は攻撃的だから」
「あの国・地域は貧しいから」
「あの民族は論理性がないから」
「あの民族は文化が低いから」
「あの人種は自己主張が激しいから」
継続的に用いることで、おもわぬ問題に発展することもある。半永久的なステレオタイプがゆるされるのはせいぜい、男 (male)vs.女 (female)ぐらいではないでしょうか。大笑 (「男は理屈っぽい」とか「不愛想」とか「えらそうにしてないと気がすまない」とか)
●つねにチェックする。ステレオタイプにあてはめられていないか。あるいは自分が誰かをステレオタイプにあてはめていないか。
だからこそ、自分も誰かをステレオタイプにあてはめてないか、つねにチェックする必要がある。いつまでも「狭い部屋」におしこめていると、相手に不快感を与える可能性が生まれます。私が負のエネルギーを増大させたように。
数年前のアカデミー賞で、インターバルのショーにおいて、中国系の子たちが「かしこく」数学の計算式を解く、というようなパフォーマンスがありました。これは中国系のかたをはじめとするアジア系アメリカ人の怒りを買って社会問題化しましたよね。
「中国系(アジア人)は数学が好き、数学が得意、というステレオタイプにあてはめている。人種に対するステレオタイプというものを助長する」として。
自分が変化しているように、人も変化する。時を経て別の才能を身につけたり開花させたりしていることもある。大きな出来事を経験して、違う生き方をしていることもある。生活形態が変わっていることすらある。家族構成も。仕事も。
ではどうすればよりよい関係を築けるのか。
「いま、目のまえにいる相手」に正面からゆっくり、向き合う。それしかないと思います。ステレオタイプは自分に都合がよいから使うのであって相手に都合がよいかどうかで使っているのではないからです。
私がされて「この人はすごい。地頭(じあたま)のよい人だ」と思うのは、次のようなことをしてくれるかたです。
★相手(私)にとにかくしゃべらせてくれる。たとえば、「Scotlandへ行きました」と言ったら「どうでしたか?」と聞いてくれる。「Edinburghはよかったでしょう」ではなく。そういわれてしまえばEdinburghの話しかできなくなります(「狭い部屋」の代表例)。
ご自身が、「私もScotlandはすでに行きました」ということを暗示したいのだとはわかりますが。
★以前のことをよく覚えていて、それがかならずしもつづいているわけではない、人は変化するものである、と理解している人。「以前はこんなことをされてましたけれど、いまはどうですか?」と聞いてくれる(諸行無常)。
★違いは性別だけで、たとえ同じ国籍(日本人)であったとしても、人の話をちゃんと聞いている。ステレオタイプで判断しない。目の前にいる私という「個」をちゃんと見ている。ちゃんと向かってくれている(ほぼ天空の存在です。そういうかたは)。
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