人生におけるサステナビリティ
今日の記事では、母校の青学から単位をもって米国オレゴン大学へ編入学して卒業し、15年以上に渡って「サステナビリティ・ESG・気候変動」などに特化した専門翻訳会社を経営しながら再び青学(大学院)へ戻ってMBA(修士号)を取得した私・小山ケイが、「人生におけるサステナビリティ/持続可能性」について書いていきます。
<もくじ>
●人生におけるサステナビリティ・持続可能性。<Sustainability>
●私が思う、「人生のサステナビリティ・持続可能性・SDGs」
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記記事は「Sustainability/サステナビリティ(持続可能性)」のカテゴリーで書きました。同じカテゴリーの過去記事は下からご覧になれます。
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●人生におけるサステナビリティ・持続可能性。<Sustainability>
さっこん、ブーム感すらある「サステナビリティ」。
企業はお題目のように「SDGs、SDGs」と唱えます。
私は2004年の4月から、約20年に渡って「サステナビリティ」に関わっています。
その私が思うのは、「サステナビリティは特別なことではない」。
生きる上で、息をするのと同じです。
裏を返すと、「自分の人生における『サステナビリティ』をおろそかにする人(企業人・組織人・その他)は、けっきょくサステナビリティは追求できない」。
どういうことか。
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戦争や平和、人権について考えることと同じです。
戦争反対、人権擁護と言いながら、私生活では愛人を作って家庭を全く顧みなくなり、妻や子供を泣かせる。
あるいは人の悪口三昧な生活を送る。
あるいは人との喧嘩がたえない生活を送る。
異人種、異文化、異民族、異なる性別に対してヘイトスピーチを繰り返す。
そういう人間にとっては、「戦争反対、人権擁護」と唱えることは、とても特別なことなのだと思います。
自分の生活と、地球上の出来事が分離している。
自分がその戦争を起こしている、とは思っていない。
自分が人の人権を侵している、とは思っていない。
もしかしたら、心のどこかに「自分は特別(良い)」という思いがあるのかもしれない。
「サステナビリティ・持続可能性」あるいは「SDGs」も同じです。
「サステナビリティの勉強会をします!」と言いながら、日々、人に対してはろくすっぽ挨拶もしない。
笑顔も見せない。
「SDGs」と言いながら、人との会話ではマウントを取りたがる。
サステナビリティの基本が「自分の生きかた」そのものである、とは思っていないがゆえの結果だと思います。
●私が思う、「人生のサステナビリティ・持続可能性・SDGs」
1) 朝、起きた瞬間、生かされていることに感謝する。
2) 人、とくに顔見知りには笑顔で気持ちの良い挨拶をする。
3) 自分に与えられたGIFTを日々、拾い上げてみる。
4) 人との気持ちよいコミュニケーションは、「平和運動」の第一歩。
5) 日々、自分の買い物のしかたについて考えてみる。
6) 日々、自分の電気の使い方について考えてみる。
7) 異なる世代、とくに年下、の話に耳を傾けてみる。
8) 日々、世界で何が起きているか、気にしてみる。
9) ごみの捨て方に意識を払う。
10) 自分の食べ方に意識を払う。
11) 生活に、座禅や瞑想をとりいれてみる。ごく当たり前のこととして。
→ 世界的なIT企業でもやってますよね。頭スッキリしますよ( `ー´)ノ
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