今日の記事では、15年以上に渡って「気候変動・地球温暖化・環境CSR・サステナビリティ」などに特化した翻訳会社を経営している翻訳者の私・小山ケイが、「ときには『自分は(が)好き』を大切にしていく」ということことについて書いています。
<もくじ>
●ときには「自分は(が)好き」を大切にしていく。
●自分を大切にする利点。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで人生ドリルシリーズとして書きました。同じカテゴリーで書いた前回の記事は下からご覧になれます。
●ときには「自分は(が)好き」を大切にしていく。
昨日の記事で私は、経済学者のケインズがその著書で金融投資の例えとして出した「美人投票」について書きました。
小山ケイ過去記事】ビジネス英語ーKeynes’ beauty contest 「ケインズの美人投票」
私はこの話には裏があると思っています。
プロの金融投資家は自分ではなく他人の思惑に焦点をあてて「平均」をとっていく。
だから、ともするとプロはみんな、平均しか利用しないということ。
金融投資のプロの仕事は平均的になりやすい。独自性、オリジナリティ、クリエイティビティ、自己主張なんてもちろん、ありません。
ましてや、その投資家の「キャラが立つ」なんてありえない。笑
市場が暴落するなどの予期せぬことがおこったとき、平均(その他大勢と同じ動き)をしていたのでは共倒れする可能性がひろがります。平均に集まる力は大きいからです。その分、そこに負荷もかかりやすい。
人気者のアイドルやタレントさんが、ひとつのスキャンダルで一気に転落することに似ています。
テレビドラマを見たらわかりますよね。
視聴率が取れるといわれたり大勢に人気があるといわれているからと毎クール同じアイドルや俳優さんを主役に起用しても、その人たちをとくに好きではない視聴者もいる。
その視聴者たちはつねに疎外感を感じています。
だからあるときからテレビドラマをまったく見なくなったり、あるいは本国で評判が高いと聞いた韓流ドラマや海外ドラマを有料サブスクで見たりケーブルで見たりすることになる。
あるいは、つねに主役を張っていたり毎クール主役級で出演する俳優さんが刑事事件を起こしたとたん、そのドラマは大幅に変更せざるを得なくなったり、再放送すらできなくなったりする。
そして気づいたら、平均的な動きをしていた日本のテレビドラマはいつのまにか、10%の視聴率をとることすら難しい時代に突入していた。今の時代です。
そういう中で無名に近い俳優さんが出るドラマが大当たりすることもあります。脚本がよかったりセッティングが面白かったり、無名だけれど芝居がうまくて魅力的な俳優さんをオーディションで選んで主役に起用するという大胆な方策をとったり、さまざまな要素を組み合わせて。
昨日の記事で私は、「ケインズの美人投票を利用するときは、我を通すばかりではなく、まわりの動きに合わせて行動するバランス感覚も求められる」と書きました。
私が敬愛するカナダの映画監督David Cronenberg氏も、「独立系で映画を作っていく場合、役者は知名度があって観客が集められて(採算がとれる)、それでいてギャラが予算内に収まる人をどうしても選ぶことになる」とセッションで何度か触れています。
どんなに才能あって自分が個人的に好きな俳優さんがいても、商業用の映画製作をするのであれば、「採算」を無視するわけにはいかないのだ、と監督の話を聴きながら私も映画ビジネスというものについていつも考えます。
でも、です。
上記のように、平均ばかりにつねに従っていくこともリスクが伴う。
ときには「自分が好き」「自分は好き」を大切にしてみる。
●「自分」を大切にする利点。
1) リスク回避(あるいはリスク分散)
2) 自分の独自性、クリエイティビティを発揮できる。
3) ニッチ。
4) ブルーオーシャン。
5) 精神衛生によい。笑
表現の世界などそうだと思います。芸能人のかたもそう。
いっけん万人受けしそうな、平均的で当たり障りのないことを言う人間に注目していられるほど世間も暇じゃないですよね。
私だったら「なんでこんなのテレビに出すんだ」と腹立たしい思いすらします。笑
「あたしでも言えるよ」
「つまんねー」
「クリエイティビティないね」
と。
だから、毒舌家は人気がある。
著名な人ばかりではありません。一般生活のなかで意見を求められたり自分の好みを問われることもあります。そのときに「他人の思惑」をあえて考慮せずに「私は(が)好き」を貫いてみる。
食べ物、買うもの、着るもの、聴く音楽。
生き方もそう。
「みんながそれをしてるから」「世間がそういうから」で「平均」をとっていくと、自分がしたいことや自分の思いは無視することになりやすい。
そしてあるときに「こんなはずじゃなかった」となる。
自分がかわいそうです。
ときには「私は(が)」好き」を大切に行動していく。
「世間は」ではなく「あたしはこの人が美人(美男子)だと思う」と一票を投じる。
誰が何と言おうと。
「目と目の間が広かろうと、背が低かろうと、鼻がだんごっぱなであろうと、釣り目であろうと、頬が長すぎようと、唇がタラコであろうと、あたしはこの人が美人(美男子)だと思う」
だいたい、「みんながこれを選ぶ」に賭けると、当たっても賞金、少なくなりますよね。賭け事は。笑
みんなで山分け、ですから。
「レースはだれが1番になるでしょうか?!当たった人たちで100万円山分け!」の発想と同じです。
囚人のジレンマです。
だから、ときには「私は(が)好き」を大切にする。
よりよく生きるために。
豊かに生きるために。
*「囚人のジレンマ」とはゲーム理論のひとつで、1950年に数学者のアルバート・タッカーが考案した、と言われています。