今日の記事では、外国語をカタカナにして用いることで、日本語の中で緩衝材やオブラートの役割を果たすことがあり得るのではないか、ということについて書いています。
●外国語はときには緩衝材やオブラートの役割を果たしてくれることもある。
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私は以前、「ビジネスでさいしょから横文字オンパレードの人間には身構えることにしています」とこのブログで書いたことがあります。
小山ケイ過去記事】なんでも横文字カタカナで言う人間。話、半分で聞いておこう。笑
けれどさいきん、とみに気づくことがありました。コロナウイルスの世界的な蔓延で専門家のかたを中心に英語が由来のカタカタが使われることで、感染されたかたは病気の治療に前向きになれたり、社会は客観的かつ冷静に感染症予防について考えることができたりするのではないか、ということです。
どこのwebだったかは忘れてしまったのですが、団塊世代で自称「評論家」という方が書いた記事が掲載されたニュースサイトを読んだことがあります。そのかたいわく、「クラスター」というカタカナをテレビ報道で専門家や報道陣が使うことにものすごく憤りを感じるとのこと。彼らを「大バカ者」と呼びつけながら。「クラスターなんて言われたって(じじいの俺には)なんのことだかわかんねぇだろ!」ということなのでしょう。あるいは「きどりやがって」という嫉妬もあるのかもしれない。
そのときは、「自分が社会からおいてけぼりくってるってことを言いたいんだろうな」と私は思ったのですが、日がたつにつれて感染されたかたが急増したり医療機関の緊迫した状況を知ったり緊急事態宣言が出されたりしたことで、「クラスター(cluster)」や「パンデミック(pandemic)」「リンク(link)」などのカタカナが専門家の間から使われるのは至極当然であると理解するに至りました。
もちろん、日本の一般のかたには耳慣れない言葉です。けれど世界的に蔓延している感染症を把握するために、専門家は猶予も許されないこの緊迫した状況のなかでWHOをはじめとする世界の専門機関と日夜やりとりしたり動向を調べたりされているわけです。
そしてそこで用いられている言語は英語です。記者会見のときに記者陣に配布されている資料が画面に映し出されるときがあります。そこには出典先からそのまま添付したと思われる図表が掲載されています。それらはほぼすべて英語で書かれています。それを見ると、英語を共通言語に世界の専門家たちがこの問題にとりくんでいることが分かるのと同時に、この蔓延がやはり世界規模なのだということにあらためて気づかされます。
時間がたっぷりある平常時ならこの図表は私のような翻訳者によって日本語訳されて配布されるのでしょう。でも一刻をあらそうこの時期にそんな時間的な余裕はありません。あたりまえです。
そして、カタカナで書かれた外国語はときには緩衝材やオブラートのやくわりを果たしてくれることもあるのだ、ということをますます強く感じたのです。
病院のカルテなども、こちらからみたらさっぱりわからない言葉で書かれたりすることがありますよね。お医者さんが優しく「ふむふむ、なるほど」なんて世間話でも聴くかのように穏やかに相槌を打ちながらアルファベットやドイツ語のようなものを書きつけていると、時には気持ちが落ち着くこともあります。
けれど、たとえばそこに、アルファベットではなく私自身が理解できる漢字で書かれたりしたらどうでしょう。「●●症」とか「要外科手術」とか。それだけで私などは恐怖心いっぱいになってしまいます。漢字の意味が分かるからです。
横文字のカタカナになることで、私ならこんなことを感じます。たとえ誤解だとしてもです。
1) その病気がすでに世界的に認知されているものである(症例がある。なんだかわからないものではない。自分以外にもその病気になった人たちがたくさんいる。そしておそらく世界中に同じ病気の人たちがいるのと同時に世界中で専門医によって大規模に研究されている)。
2) 緊急性の高い症状であること。慢性的なものというよりも。それにふさわしい日本語をゆっくりと探っている状況ではないということ(丁寧な和訳を悠長にしている場合ではないということ)。
3) 病名がある。→ 不定愁訴があって医療機関を受診しようと決意するまでの間、「これはいったいなんなんだろう。何かの病気だろうか」ともやもやと考えているときほど不安は時はありません。私の体験です。
●病気をはじめとするカタカナ言葉は自分も救われますし、人に対する気遣いとなることもあるのではないか。
ビジネスや一般生活のなかでこれみよがしにカタカナ用語を連発する人は多分に「自分に有利にことを運びたい」という意図を抱えていることが多いと私はこれまでの経験から感じています。
ご本人は無意識だとしても決して一般的ではないカタカナが初対面の人から連発されると、けむに巻いたり大それた仕事をしていると思わせたりあるいは「自分は国際間をまたに仕事をしている」とでも思わせたいのだろうか、と勘繰ってしまいます。
けれど前述のとおり、医療現場や今回のコロナウイルスの世界的な蔓延のような感染症の対策について、いわゆるカタカナ用語が出てくるのは状況の緊急性が高かったり規模が世界規模だったりすると当然のことだと思えます。
カタカナ用語はともすると生々しかったり残酷だったり直接的だったりする表現をやわらげてくれることもある。そのことに今回、あらためて気づかされました。医療や病気だけではありません。犯罪もそうです。マスコミや警察をはじめとする周囲の言葉によって傷つけられるような二次被害に遭われるかたもおられます。日本語の表現によって。
あるいは「それが普通」と社会で言われる人生ではない生き方をされているかたに対しても同じだと思います。
どのようなときに外国語やカタカナの言葉が緩衝材となったりオブラートに包んだ表現となるのか。それは相手を気遣う想像力を最大限に駆使するしかないのではないか、と私はそう思います。機械のように「このときはこの表現、あのときはこの表現」などと表やマニュアルにしたりするのは愚の骨頂でしょう。想像力を使わなければならない。生きている限り。
ご本人ではないのだから完全にご本人の気持ちを想像することは不可能かもしれない。けれど、人生ドリルとして「外国語やカタカナには印象を柔らかくしたり相手を思いやる表現につながることもある」と少しでも思ってみると、「大バカ者」と言い放って思考停止することなく他者を思いやったり状況を分析したり把握しようと努める社会性ある姿勢につながるように私は思います。
*ノーベル賞受賞者であり市民ランナーでもある、京大教授・山中伸弥先生によるコロナウイルス情報発信のwebsiteとFacebookアドレスです。私もときどき拝見しています。
https://covid19-yamanaka.com/
https://www.facebook.com/covid19yamanaka/
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“小山ケイの人生ドリル35-緩衝材やオブラートとしての外国語もある。” への2件の返信
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