「高コンテキスト社会」と「低コンテキスト社会」(1) (High-context society vs. low-context society)

母校の青学から単位をもって米国オレゴン大学へ編入学して卒業し、15年以上に渡って「サステビリティ・ESG・気候変動」などに特化した専門翻訳会社を経営しながら再び青学(大学院)へ戻ってMBA(修士号)を取得した私・小山ケイが、Tエドワード・ホール博士の「高コンテキスト社会」と「低コンテキスト社会」について書いていきます。

<もくじ>
●エドワードTホール (Dr. Edward T. Hall) の説との出逢い

●「高コンテキスト社会」と「低コンテキスト社会」とは。
●私の体験。

このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで書きました。同じカテゴリーの過去記事は下からご覧になれます。

●エドワードTホール (Dr. Edward T. Hall) の説との出逢い 

 

米国に数年間在住していた20代のころはただただ、カルチャーショックに翻弄されるばかりで自分が感じるこの「文化的差異」がいったいどこからくるのか、なんてことはほとんどわかりませんでした。

個人主義 対 集団主義?

遊牧民族 対 農耕民族?

と思うばかり。

帰国後、異文化コミュニケーション関係の修士号を大学院で取りたい、と思い立ち、異文化コミュニケーションに関する学術書を受験に備えて一時期、読み漁りました。

そのときに出会ったのが、文化人類学者のエドワードTホール(Dr. Edward T. Hall)が1976に発表した「高コンテキスト社会と低コンテキスト社会」(high-context society vs. low-context society)という概念です。

その理論や実証性については研究者の間でもいまだ賛否が分かれるようですが、私がHallの説を知ったとき、「腑に落ちる」という表現が正直ぴったりきました。

実際に異文化に数年間住んだものが感じる文化的差異という違和感をまずは、「モヤモヤと感じていたことってこういうことが理由だったのかもしれないな」と思わせてくれた。

私は博士課程の人間のように反証したりしたくてこのブログを書いているのではありません。

なので、へ理屈うんぬんではなく、実際に感じたことをまずは書いてみたいと思います。

感じてない&体験してもないのにあーでもないこーでもないっていうの、好きじゃないですし。笑

●「高コンテキスト社会」と「低コンテキスト社会」とは

伝統を通して長年にわたって培われた普遍性・汎用性のあるものなどが広く社会で共有されているのが高テキスト社会、国歌や国旗、人気タレントへの認知度、スポーツチームの応援などの人為的、人工的なものを介在にして、社会の共有認識を醸し出そうとする社会、つまりそれらに頼らなければ社会としてのまとまりや国自体の存続すらあやうくなる可能性のある社会が低コンテキスト社会、と言えるかと思います。

高コンテキスト社会では言葉に行間があり、非言語コミュニケーションにより重きが置かれやすく、低コンテキスト社会では言葉が重要であり、意思の疎通を図るためには言葉を駆使しやすい、とのこと。

移民によってつくられた国か、

何千年という歴史を国民が共有しているのか、

概念としての『国』を政府が便宜上作ったのか、

生物学的な見た目(髪の毛や瞳の色等)は類似性ある社会か、多様性がある社会か、

共有される歴史観や文化的背景はどうか、

日常的に話す言葉はそれぞれ異なっているのかどうか。

そして、

日本は高テキスト社会の代表であり、米国は低コンテキスト社会の代表ということになる。

Hallに基づくと。

●私の体験。

私がいちばん感じた差異とは。とにかく、言葉でちくいち説明しないと理解してもらえない。いや、それは日本語でも同じじゃん、と言われそうですが、日本の比じゃない。

さらに、言葉の額面が日本とは違ってとても大切にされている。

自分の居場所=意見、考え、いま思ってること、感じてることなどをつねに、言語化 (verbalization) してまわりに声を出して、言葉で表明しないと、まるでそこには存在していない人間として扱われる。

(だから、意見を言わないで黙ってると文字通り、”Where are you?”と尋ねられる)

それは米国文化にあまりなじみのない人間、しかも「いわぬが花」の文化で育った日本人から見ると、「とにかく強く自己主張している」というように映る部分だと思います。

モノ(言葉)を言う=自己主張、ととらえられることが多いのが日本社会であるため。

でも、そうじゃない場合が多いんですよね。

行ってみて、数年住んでみて、そう感じました。

アメリカ人が強く自己主張している、というよりも言葉(英語)という共通の命綱を利用しないと、お互いに理解し合えないようなところがあるから、ひとつの国として機能しえないようなところがあるから、彼・彼女は英語という言葉を発して相手と社会機能を働かせようとする。

あうんの呼吸、なんて存在しないから(ネイティブアメリカンや一部、絆がとても強かったり血筋が近い人たちによるコミュニティを除いて。このあたりはまた、言語学の分野として別のテーマで語ってみたいと思います)

狭い座席の劇場や飛行機のなかで、隣の人の前を通るときにおすもうさんみたいに立心べんを無言で宙に描いても理解されない。(あたりまえか。笑)

どんなに心の中で、「かたじけない」と詫びていても、「Excuse me」と滑舌よく、言葉を発することなく、無言で通り過ぎては、相手には「ああ、この人は私の前を通ることを詫びているのだな」と理解してもらえない。

留学生である私が自ら「私は留学生です。日本人です。アメリカ人ではありません。英語は私の母国語ではないので、話すのは大変です。私の母国語は日本語です。私は生まれてから長年、日本で育ちました。日本の文化は米国の文化とかなり違います。いまこうして、私が押し黙ってしまったのは、あなたの英語がわからないからです。私の母国語ではない英語の意味が分からないからです。あなたに対して悪意があって黙りこくったのでは決してありません。私もこの社会は日本とは違い、『沈黙 (Silence)』というものが悪意の裏返しとして受止められる、あるいはとても否定的に受け止められるという事実をようやく理解しはじめています。ですから他意あって沈黙したのでは決してありません。単純に、英語が分かっていないだけなのです」

などと言葉を用いて自分の立場を懇切丁寧に表明しないと、誰も理解なんてしてくれない。

たとえ私が今日、日本からやってきて英語がおぼつかないとしても。

そこに矛盾やフラストレーションがあるとしても。

いっぽうの日本。

相手が留学生だとわかったとたん、「日本語お上手ですね」とか「日本語ぺらぺらですね」とか「日本で暮らすのは文化も違って大変でしょう」「食べ物が違うから大変でしょう」などと、相手がなにも言わなくても自分から相手の立場を察して気遣う言葉を投げかける人が多い。

先日も我が母校、青山学院の駅伝チームの活躍をふたたび観ようと2018年1月の箱根駅伝と11月の第50回全日本大学駅伝の2つの違うテレビ局による中継を私が観ていたら、どちらにも出演していた解説の瀬古さんが、アフリカ系の留学生やアフリカ出身の監督のインタビューが終わるや否や、開口一番「日本語、ペラペラですね」と言いました。笑

どちらの番組ででも。感心・感服されたように。

私は留学生として米国に数年間在住しましたが、上記の日本のかたや瀬古さんがおっしゃったような気遣いをアメリカ人から言われたことは、皆無です。

双方の社会を比較してどちらの社会がすぐれている、という優劣をつけているのではありません。

(こういう話をすると、どちらかの社会にとても思い入れが強いのか、たまーに、なんだかやたら激高して「でもいいとこもあるじゃん!」とか言い出す人がいるのですが、それって自分のなかに「それを悪い、ととらえる人がいる」という前提があるからそう反論しはじめるわけですよね)

場所にもよるでしょう。

日本人がほとんどいないような、山奥の学校なら、「日本から来たの?はじめまして。私が日本の人に会うのは生まれてはじめて」とあいさつしてくれるかもしれない。

でも、私が留学したオレゴン大学は、全体の学生数も数万人、留学生だけでも全体の1割、在学しているオレゴンの高等教育機関のなかでも中核を担うようなマンモス総合大学でした。

地域のコミュニティカレッジからTransferしてきたようなアメリカ人でさえ、「なんかみんな、よそよそしくって友だちを作るって雰囲気じゃないね。授業で会うだけで」なんて言っていたぐらいです。

次回はまったくの主観として、私が感じたそれぞれの社会の良いところ、助けられる(た)部分、いい感情を感じた部分、を表にしてみよう、と思います。

でもこれはあくまで、私が感じたそれぞれの長所。

よって、私が言いたいことも、なんども言うように、「高コンテキスト社会のほうが優れているんだ」「低コンテキスト社会のほうが優れているんだ」などという、優劣の次元の意見ではありません。

Dr. Hallがおっしゃってらしたことと同じように。

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