「個の時代」とは。10コ。これまで何十年と個で動いてきた私にはとても不思議な響きですが・・・

今日の記事では、「個の時代」とさっこんよく耳にする「個」について書いています。



昨日は下の記事を書きました。



(我が母校青山学院の駅伝チームOB森田くん、下田くん、一色くん、林くん等々が就職したGMO社です!)

一昨日の記事です。

●これからは「個の時代」なのだそう。昔からじゃなかったんだ、と思う私が挙げる、「個とは」10こ。

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おそらく、1億総サラリーマンだからかもしれないですね。昨今よく「個の時代」とあちこちで聞くようになって、何十年と「個」で生きてきた私としては、「え、いままで個の時代じゃなかったんだ・・・」という不思議な違和感でいっぱいです。

私が母校青学へMBAを取りに行ったときも、学年のほぼ9割以上は、会社員でした。入学する前の面接のときも、「会社員の人が多いんですか?」と面接官の先生に聞いてみたところ、「会社員ばっかりだよ」とぼそりといわれました。

個とは文字通り、個人をさしているのだと思っています。そこで、「個の時代の個」を私の想像力を駆使して考えてみました。「群れない」とか「自分がある」とかいう表現は、高校生あたりの子でもよくしてます。そうではない、酸いも甘いも嚙み分けた大人だからこそ考える「個」について書きます。

1) 自分が「ない」。つまり、無我。無私。

私が、私が、ではなく、気持ちは半分すでにあの世に行っていて、残っている半分の肉体を使って「いま自分ができることはなんだろう」と考える。

例)大変な自然災害がおきたとき、「自分ができること」を考えて、現地でボランティア登録する。あるいは金銭の寄付をする。たくさんのかたがたがされています。だからこそいま、「個の時代」と表現されるのかもしれませんね。

2) 流動性がある。身体的にも精神的にも。

「一生この会社に骨をうずめる」ではなく、キャリアアップを図るためには転職もする。より社会性のある仕事をしたり世界的に意義のある仕事に転職する。あるいは、時代の最先端を行く仕事をする。

あるいは転職は、自分の家族のためかもしれません。自宅で介護したり障害を抱える家族を支えるため、といこともあります。

3) 「マス」として扱うことが難しい存在。

何度も書いていますが、私のようにすでに何年も「テレビのない生活」をしている人間は、芸能人やテレビ広告の影響をほとんど受けることがなくなってきました(だいたい、芸能人の名前を言われても知らない人ばかりです。笑)。

だから、誰かがマスとして私を扱いたいとしても私にはとても違和感を感じるのです。「芸能人のだれそれさんも使っている美容液です!」なんてたとえばYouTubeで流れてきたとしても私には「誰それ」ですから。流している側の意図は、「テレビで有名な人の名を使って親近感と信頼性を持たせてその美容液を売る」ってことですよね。テレビとはつまり、マスに向かって一方的に流れる「マス」メディアです。

4) その分、情報をとってくる先が多岐にわたる。

国際線の飛行機に乗れば海外で発行された新聞(たとえばFinancial TimesとかWall Street journalとか)を私は機内で読みますし、雑誌も同様です。ネットからもBBCを聴いたり、海外YouTubersや海外マスメディアの公式動画をYouTubeで観たりしています。

そのほかにも、信頼おける友人知人たちから話を聞いてみたり、モバイルTVやNetflixを観たりもします。

国内にいても動き回りますので、そのたびに五感から情報がたくさん入ってきます。

地方にいる人から聞いたのは、「首都圏にくると、電車のなかの広告がものすごくささってくる(どぎつい。えぐい)」とのこと。

広告もよく見るようにしてます。おもしろいですし。

5) だからこそ、情報リタラシーが求められる。

自分軸は絶対です。自分軸を基準に世の中で波乗りします。

6) ネットの世界で「国境なき地球市民」を形成しつつある。

パスポートを作るときは母国発行のものを持参しなければなりませんが、ネットではパスポートはいりません。言葉の壁はもしかしたら存在しているのかもしれませんが、基本的に英語が使えれば個人として世界中の人たちと意見交換したり雑談したりすることは可能です。

7) 固定観念のようなものに違和感を感じはじめる。

SNSをやったり、外国語(おもに英語)で世界の人たちとやりとりすればするほど、「固定観念」がうすれていきます。

8) 自分の審美眼がある。

一時期の日本はまるで、日本文化を否定するようなところがありました。さらに、business-orientedで文化芸術は後回し、という時代もありました。

そんな時代は「心身の統一」だの「ヨガ」だの「マインドフルネス」なんて言っても鼻で笑われたはずです。

心身を統一させたりマインドフルネスで生きていくと、自分の審美眼が分かってきますよ。

そして、SNSなりブログなり動画なりを見て、自分の意志で「いいね!」を押したりリンクを貼ったりするのです。

だれかに強制・強要されるのではなく。

9) 個人個人が表現者。

YouTubeがいい例ですね。自分のチャンネルを持てます。

10) 年齢、肩書、性別、国籍、人種、組織に関係なく、友人知人になれる。

マスの時代は年の離れた人と友達になったり、違う国の人と友達になったりする機会もそれほどありませんでした。

いまはSNSやネットで知り合ったりやりとりしたりすることができます。

この間も、大学駅伝に出ている学生さんたちの動画を見ていたら、他校の違う学年の人ともTwitterで楽しくやりとりした、なんて言ってました。私が学生のときであれば、こんなことしたくても「手段」がありませんでしたね。いいね。

 

●「個の時代」と言われるようになった時代背景。私が考えたこと。

いちばん大きなことはやはり、いくつの人であっても、スマホが持てたりSNSにつながったりできるようになったことだと思います。

上記のとおり私自身はそれまでも「個」として生きてきたつもりですが、マスメディアなどで「個の時代」と最近よく言われるようになったのは、情報の流れが一方通行だったマスメディアからそれぞれの個人が発信することになったことによってではないでしょうか。

電車のなかで観察してても、老年のかたがたがスマホでLINEをしてたりゲームをしてたりします。「老年のかた」です。スマホでLINEをしたりゲームをしたりするのは若者ばかりではありません。

こういうかたがたがオンラインでつながって「オフでも会いましょう」となってオフ会であってみると、自分とは世代も性別も生活環境も違った、なんてことは大いにありえます。私がネットの住人となった10年以上まえからある光景ですね。

大昔のヨーロッパだと教会がひとつの役割を果たしていたので、同質性が強くて序列のある社会のなかで一生を過ごす人が多かった。もちろん、インターネットなんてありませんので、その社会以外の外の世界の人とつながる機会は皆無だったはずです。

青山学院大学の正門

コミュニティの変遷の話にまで及ぶと「社会学」が出てくることになってしまいますのでこれぐらいにしますが、私が思う、「いまなぜ『個の時代』と呼ばれるようになったのか」。自分をとりまく環境から理由を考えてみました。

★人材・人間の流動性。

★家に居ながらにして海外とつながっている。

★ノマドワーカーの増加。

★リモートワークの増加。

(上記二つは、長寿化による介護の必要性が増えたことや、子どもを育てながら働く女性が増えたことも大きいと思います)

★物理的な職場の変化→ 住居と仕事場が一緒(SOHO)

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