今日の記事では、つねに「なぜ」を考える、ということについて書いています。
<もくじ>
●「なぜ」を考える。つねに。Contemplate the reason why.
●私がさいきん考えた、「なぜ」
●「なぜ」は知的好奇心も満たしてくれる。
このブログ「小山ケイ:Feel this precious moment」はいくつかのカテゴリーに分かれています。今日の記事は「徒然なるままにひぐらし。」のカテゴリーで人生ドリルシリーズとして書きました。同じカテゴリーで書いた前回の記事は下からご覧になれます。
●「なぜ」を考える。つねに。Contemplate the reason why.
「なぜ」を考えても分からないことはたくさんあります。
それでも、人生ドリルとして「なぜ」を考える。
長い人生の中で。
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「なぜ」を考える「なぜ?(理由)」。
1) 自分の解決能力が上がる。
2) 判断力の向上
3) 思考力の向上
4) 精神力の向上
5) 応用力の向上
6) 新規性あることを思いつく練習
7) 世の常、摂理、道理、理屈などなどが見えてくることがある
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これからの大学受験は、「判断力」と「思考力」を問う出題が増える、と随所で聴くようになりました。
私が高校生のときの大学受験(といっても、私自身は受験もしていませんし受験勉強はまったくしていませんが)は「暗記もの」だとよく言われました。
どれだけ暗記したかが問われる。
英語や数学の公式などはある程度、暗記が必要とされる。
けれど、「なぜ」を考えると上記の1)から6)によって理解力が深まったり、場合によっては自分で新規性ある研究を始めることも可能です。
なにより、生きていくうえで大切なのは上記7つ。とくに1)から4)です。
大人になっても多くの人が振り回されることで一番多いのはなんだと思います?
人間関係です。
とくに日本は組織社会がマトリョーシカのように入れ子細工でダイナミズムをつくりだしている。だからどこへいっても人間関係がつきまといます。
(聞いたところでは、日本の人が海外に住んでも、ある職種・立場の人たちの日本人コミュニティでは窮屈な組織社会がその国・地域で出来上がるのだとか)
もちろん、加齢とともに健康やお金、「老後(死に方も含めて?)」などなどに心を奪われることも増えるかもしれない。
けれど、未成年であっても悩まされるのは人間関係だと思います。
人間関係は相手があってこそ。
だからこそ、自分でも「なぜ」を考えると、完全に相手の問題であることが見えてくることもあります。
【「なぜ」を考える場面(一例)】
◆人間関係
◆学問
◆天気
◆国際関係
◆エンターテイメント
◆経済の動き
●私がさいきん考えた「なぜ」
昨日のブログで私は、ノーベル経済学賞受賞者である故ミルトン・フリードマン教授がNew York Timesに1970年に寄せた論文について取り上げました。
いまでこそ物珍しくもなくなった(といったら語弊がありますが・・・)「企業は誰のためにあるのか」議論や「株主第一主義vs.ステークホルダー主義」議論。
けれど、博士があの論文を書いたのは、半世紀も前のことです。
博士は「なぜ」あの論文を書いたのか。
そう考えた時、米国経済を取り巻く米国社会が大きく変換していた事実が見えてきます。
これまでに米国でなかったような潮流。
その潮流が1970年代、米国経済や米国企業をうごかそうとしていた。
草の根であったはずの名もなき存在(あるいは社会で虐げられていた人たち)が。
フリードマン博士がいまでもご存命で中堅の中年学者であったとしたらおそらく、ああいう論文にはならなかったのではないか、と私は思います。
フリードマン信望者とでも呼ぶべきかたがたには申し訳ないけれど、あの論文はフリードマン先生が何もないところからイチを生み出して書いた、というよりも、「時代に押されて書いた。時代が先生に書くようにと挑戦してきた」と表現したほうが私にはしっくりきます。
原文を読むと、とにかく「ああ、先生はタカ派だったんだろうな」とさえ思える反対意見論(Devil’s advocate)のレトリックでたくさん。はっきり言って「敵には回したくないタイプ」(笑)。
そのひとつが、めったにお目にかかれない「eleemosynary」という英単語です。
「employe」という単語も私ははじめて目にしました。
employmentでも、employeeでも、employerでもない。
何度も何度も出てくるので誤植ではありません (New York Timeいわく、「1970年に紙の新聞で出版されたときのままにデジタル化しました。誤植もありましたがそのままにしてあります」)
ちゃんとした、立派な、高等教育機関でお勉強して、一流の企業人・政治家に囲まれながら世界的な研究をしている学者先生級であれば、こういう、一般人はめったにめにしないような「ご存じないわけはない」言葉が使われる。レトリックとして。
「どうだい?」と。
先生の荒い鼻息すら聞こえてくるような論文です。笑
今のこの時代に先生がご存命で、ばりばりの現役大学教授であったりしたら、おそらくトランプ政権を支えておられるはずです。中国経済やWeChat、TikTokを警戒しつつ、米国内にとどまらない多国籍・無国籍の多くの企業による「世界経済」をどのように研究されるのでしょう。
そこに「新規性ある研究課題(上記の番号で言えば6番)」があるような気もします。博士課程レベルで研究される新規性という意味で。
●「なぜ」は知的好奇心も刺激してくれる。
たとえば英語。
イタリア語やフランス語に通じる単語を見つけることがあります。
「なんでかな」と思いながらいろいろ調べていくと、英語はこれらの言葉を大昔に「借用(borrow) 」したのだという言語学的な歴史が見えてきます。
発音の仕方も、米国と英国では違います。
米国国内でも違うところがある。
「なぜ?」という思いを大切にしながら調べていくと、歴史、言語学、文化人類学、なんていう学問に行きつくこともあるでしょう。
「日本では義務教育で英語が教えられているのに流ちょうに話せない人がいるのはなぜ?」「ヨーロッパでは非英語圏の学生が流ちょうに英語を話しているのはなぜ?」「TOEFLの世界各国の平均得点のなかで日本の平均値が低いのはなぜ?」などなど。
アカデミックな勉強ばかりではありません。
以前私はこのブログで、「最近、小売業にいくと『店長』と名乗る人が若返っている気がする」と書いたことがあります。
一昔前は白髪頭で皺の多い「おじいさん」や「おじさん」が店長だったような気がするのですが(私が高校生のときにアルバイトしていたファーストフード店も、店長は30代後半でした)、いまや、「店長」と名乗る人は20代後半。ばあいによっては新卒入社数年で店長、というひともいるはずです。
「なんでかなぁ」と考えると、日本の経済の流れや雇用状況などが見えてくる。
バブル崩壊後、終身雇用や年功序列制を維持していられる企業・業種はどんどん減り続けています。マクロ・ミクロ、さまざまな経済的事情によって。
賃金が高い中高年を店長にするよりも、若くてよく動いてくれて、それでいて昇給率がまだ低い若手に役職者をしてもらったほうが会社も利益が残る。
さらにもっと言うと。
少し前に読んだある記事では、「社員のいない店。パートやアルバイトでまわしている」と書いてありました。子供用品の販売店でした。
「やりがいのある仕事が任される」と言えば響きはいいけれど、裏を返せば「それだけ責任は重い」。
福利厚生を含めた固定給が高い社員よりも、時給制で働いてくれるパートやアルバイトが店を回せる仕組みをつくったり、教育を通して彼らひとりひとりの「能力」を向上させると、社員がいらない店、ができあがる。そして「社員の給与」という固定費が削減できる。
究極的なことを言うと、企業は社員を内部で、現場はパートやアルバイトで回したい。
(将来的にはAIが現場を回すかも・・・?)
だから、自分が働くときは、時給が低くて責任ばかり押し付けられる難儀な仕事よりも(笑)、時給と仕事内容・責任の重さが見合うところや、社員並みの仕事を任されるとしても「正社員への登用制度」があったり時給の昇給やボーナス制度・有給・社員なみの福利厚生・組合のあるところを探してみる。
あるいは、将来的に自分の財産となりそうなことがOJT(仕事をしながら学ぶやりかた)で身につけられる仕事かどうか、ということもあると思います。